立て看板では「高幡城址」となっています。
高幡不動尊のすぐ裏山をふうふう登った所が城址になります。
遺構としては浅い堀切が見られる程度でした。
築城主、築城年は不明。
主な城主は高幡氏との事。
恐らくの話しですが…平安時代後期〜鎌倉時代に高幡というこの場所を領地とした土豪が高幡氏と名乗り始め、山城を築城したと思いますよ。
この辺りの最初の築城パターンは殆どこんな感じです。
そして、その後の時代に扇ヶ谷上杉氏か鎌倉公方がそのまま利用、又は取り合いをして…そして、その後の時代はお決まりの小田原北条氏系の支城または…出城という感じで豊臣秀吉の小田原攻めで攻め落とされ、その後に廃城みたいな感じではないでしょうかね…分かりませんが。
まぁ…坂東の山城の王道パターンですかね。
城に関する記録はほぼ無い様です。
因みに高幡不動の裏山が城山です。
山城の道すがらにはお地蔵様が八十八体立っており、四国ハ十八箇所のお遍路をしたのと同じご利益が得られるという仕組みになっています。
29番目のお地蔵様の辺りから登った見晴らし台が二の丸、本丸という感じです。
悪くは無いと思いますよ。
お遍路さんも出来ますしね。
高幡不動尊の裏山で標高125メートルの不動丘にあります。
手軽に山城の雰囲気を味わえるところで堀切、曲輪が尾根上な連続で現れます。
ここから七生丘陵ハイキングコースが平山城址公園まで続いていて緑の散策路を楽しめます。
高幡城は武蔵七党のひとつ西党の高幡十右衛門が城主で、ここ金剛寺は、山内上杉氏祖上杉憲顕公が、分倍河原合戦の時古河公方、足利成氏公と、戦い、負傷した、場所で、ここ、高幡城は、平高麗氏の城かと思われます。
立て看板では「高幡城址」となっています。
八十八ヵ所を回っていると、てっぺんにありました。
こんなところにあったんですね、城が。
まあちょっと考えれば、ほどよい高さで周りが見渡せる、納得です。
標高は120mくらい。
下界は標高70mくらいなのでその差は50m程度。
立川~国分寺方面が見渡せます。
資料があまりないので正確な説がないと前置きします。
1455年の第1次立河原合戦(立河原の戦い)の時に関東公方の足利成氏に破れた、同じく関東管領の上杉憲秋が自害したところが、この高幡城ではないかと言われています。
また、1504年の第2次立河原合戦(多摩川の戦い)の時も、上杉朝良・今川氏親・北条早雲連合軍と上杉顕定・足利政氏連合軍の戦いの時に拠点として、この高幡城が使われたとか。
そして一番可能性が高いのが、戦国時代に相模国(さがみのくに)小田原城を拠点とする北条家の当主北条氏照の配下だった、平山大学助(だいがくのすけ)という武将がこの高幡一帯を知行(=領地のこと)していたという説があります。
アクセス京王線・高幡不動駅より高幡不動尊方向に徒歩15分。
高幡不動尊境内、多摩丘陵自然公園内。
多摩都市モノレール・高幡不動駅より高幡不動尊方向に徒歩20分。
高幡不動尊境内、多摩丘陵自然公園内。
1590年の豊臣秀吉による「小田原征伐」の際には北条氏の家臣、高幡十右衛門が居城して、秀吉軍と戦ったと伝わっています。
城跡は新選組副長の土方歳三の菩提寺としても知られる高幡不動尊の裏山に位置していて、曲輪跡のほか、堀切や竪堀などの遺構を確認することができます。
1455年分倍河原の戦で関東公方足利成氏が関東管領山内&扇谷上杉氏を下しこれを逃れた上杉憲秋が切腹した。
名前 |
高幡城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
2022-11-12訪問高幡城跡の痕跡は入口階段下にある立て看板だけです階段を登ると幅が狭い平坦な土地が数十m続きます所々…樹木が開けており景色がとても良いですただ、ここに山城があったとは思えないほど狭い土地です。