日本兵に狙撃され亡くなった場所です。
大東亜戦争の戦跡めぐり。
米軍の歴史上最高位階級の戦死者です。
前線を視察中に戦死されました。
死因は、諸説があります。
日本軍の砲弾で岩石の破片が胸にあたり出血死したとか、狙撃兵に狙撃されたの説があります。
この他にイースリー准将とメイ大佐もこの地で戦死され、碑が建立されています。
どーも❗️TOMOです❗️なんか聞き覚えのある名前だなと思って立ち寄りました。
アメリカ陸軍准将の慰霊碑。
日本側がアメリカの准将の慰霊碑を建てるのかな?と思って調べたらもともとは米軍が建てたものなのですね❗️いまは日本が管理しているようですが慰霊碑は英語のみ刻まれてました。
慰霊碑は良いけど母国に帰りたいのでは?と思って調べたら亡骸は戦後にアメリカの地へ移されたそうです。
平成生まれの僕は日米の戦争の話はピンと来ないですが、糸満には戦争の爪痕を感じる場所がいくつもあり実際にあったことなのだなと痛感させられます。
以上TOMOでした•••❗️
沖縄戦の米軍最高指揮官が視察中に狙撃され亡くなった場所。
栄里の塔の向かいにあります。
バクナー中将のほか、この付近で亡くなったイーズリー准将とメイ大佐の碑があります。
イースリー准将の慰霊碑のほうが豪華そうに見えたが、もともとのバックナー中将の慰霊碑はキャンプフォスターに移設されたそうな。
真栄里地区には他にも数々の慰霊碑が建立されており、沖縄戦当時は本当に凄惨な大激戦地だったことが伺える。
サトウキビ畑に囲まれた、あまり車の往来もない静かな場所だ。
2022年10月19日訪問。
「米第十軍司令官サイモン・B・バックナー中将は1945年6月18日午後1時15分、戦闘指揮中にこの地で戦死した。
これは2013年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した事例である。
1952年に米軍の手により記念碑が建立されたが、1974年にキャンプフォスターに移設されたため、1975年6月に沖縄県慰霊奉賛会により現在の碑が建立された。
」糸満市HPより。
沖縄戦終盤をむかえ、前線視察中に散華されたバックナー中将の碑がある小高い丘です。
砲撃に因りとか、狙撃に因りとか色々な憶測ありますが、見回した感じの雰囲気では、狙撃なのではと思いました。
こじんまりとした場所です。
太平洋戦争末期の沖縄戦において連合軍最高指揮官たる中将として従軍・戦死。
第二次世界大戦中のアメリカ軍において、敵軍の攻撃によって戦死した者の中で最高位の階級を持つ軍人である。
観測兵による発見で砲兵隊によって散華されたとWikiにありました。
碑の裏手には不発弾調査中の看板があります。
戦後80有余年、まだ終わることのない負の遺産が一帯にあるのでしょう。
沖縄戦終盤に、この地で戦死されました。
小高い丘で、見渡すにもいいが、標的になるにも絶なりやすい場所です。
ごく間近には、歩兵第32連隊の壕も有り、知らずとはいえ、ここに登ったのが運の尽きだったと思いました。
第二次世界大戦中のアメリカ軍において、敵軍の攻撃によって戦死した者の中で最高位の階級を持つ軍人。
砲撃受けたとも、近くの壕からの狙撃とも。
1945年6月18日、沖縄方面連合軍最高司令官バックナー中将が、日本兵に狙撃され亡くなった場所です。
日本軍の組織的戦闘が終わったとされる牛島司令官と長参謀長が自決する日の5日前です。
この時すでに沖縄の殆どが米軍の手中にあり、敵ながら無念だったと思います。
また沖縄占領に3ヶ月近くもかかり、バックナー中将は軍内でかなり非難されていた様です。
名前 |
バクナー中将慰霊碑(バックナー中将戦死之跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
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沖縄戦でバグナー陸軍中将が戦死された場所、南部撤退以降の沖縄戦終盤の戦いの中の出来事です。
付近には多くの戦跡、慰霊碑などがありいかに激戦であったかを物語っています。
付近の地形を参考にしながらいろいろな戦跡の位置を見るといろいろな感情がわいてきます。
米陸軍史上、中将の戦死は最高位だそうです。
映画などでも日本軍の牛島司令官、長参謀長、八原高級参謀とともに登場することが多い将官です。
英文の碑文や星条旗があしらわれていたりと付近の石碑の中ではやや趣が異なって見えます。
これも民族の違いでしょうか。
いずれにせよ、先の大戦で命を落とされた方ですので他の日本の碑と同様に手を合わせていただきたいと思います。