日本兵に狙撃され亡くなった場所です。
沖縄戦終盤をむかえ、前線視察中に散華されたバックナー中将の碑がある小高い丘です。
砲撃に因りとか、狙撃に因りとか色々な憶測ありますが、見回した感じの雰囲気では、狙撃なのではと思いました。
こじんまりとした場所です。
太平洋戦争末期の沖縄戦において連合軍最高指揮官たる中将として従軍・戦死。
第二次世界大戦中のアメリカ軍において、敵軍の攻撃によって戦死した者の中で最高位の階級を持つ軍人である。
観測兵による発見で砲兵隊によって散華されたとWikiにありました。
碑の裏手には不発弾調査中の看板があります。
戦後80有余年、まだ終わることのない負の遺産が一帯にあるのでしょう。
沖縄戦終盤に、この地で戦死されました。
小高い丘で、見渡すにもいいが、標的になるにも絶なりやすい場所です。
ごく間近には、歩兵第32連隊の壕も有り、知らずとはいえ、ここに登ったのが運の尽きだったと思いました。
第二次世界大戦中のアメリカ軍において、敵軍の攻撃によって戦死した者の中で最高位の階級を持つ軍人。
砲撃受けたとも、近くの壕からの狙撃とも。
1945年6月18日、沖縄方面連合軍最高司令官バックナー中将が、日本兵に狙撃され亡くなった場所です。
日本軍の組織的戦闘が終わったとされる牛島司令官と長参謀長が自決する日の5日前です。
この時すでに沖縄の殆どが米軍の手中にあり、敵ながら無念だったと思います。
また沖縄占領に3ヶ月近くもかかり、バックナー中将は軍内でかなり非難されていた様です。
名前 |
バクナー中将慰霊碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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2022年10月19日訪問。
「米第十軍司令官サイモン・B・バックナー中将は1945年6月18日午後1時15分、戦闘指揮中にこの地で戦死した。
これは2013年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した事例である。
1952年に米軍の手により記念碑が建立されたが、1974年にキャンプフォスターに移設されたため、1975年6月に沖縄県慰霊奉賛会により現在の碑が建立された。
」糸満市HPより。