1606年に八丈島に流されてきました。
豊臣政権下における五大老の一人、宇喜田秀家の墓所です。
宇喜田秀家は関が原で西軍の主力として戦いましたが、友軍の寝返り、お家騒動による戦力低下などにより、あえなく敗軍の将となりました。
関が原合戦後は島津家にかくまわれましたが、追及が厳しくなり、徳川家に身を委ねました。
徳川家は宇喜田秀家を島流しとし八丈島に閉じ込めるという処分を下しました。
八丈島に流されたのは、秀家34歳の時、その後83歳で没するまで八丈島で暮らしました。
八丈島の生活は中央で公達として青春時代を送った秀家にとって快適ではなかったと思います。
しかし前田家(奥方が前田の姫)の取りなしによる恩赦も断り、この地で子孫繁栄をしたので、それはそれでよい余生だったのかもしれません。
また秀家の後も罪を犯した人が続々と島流しにされ土着したそうです。
このお墓はもともとあった場所から移設されたようで、遺骨も埋葬されているのか不明ですが、とても歴史の悲哀とロマンを感じさせてくれます。
悠久のロマンを感じます。
慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いでは西軍に投じて敗れたため,薩摩に逃れ,島津氏のもとに隠れていたが,島津忠恒の命乞いによって死を免れ,駿河久能に放たれ,同 11年4月には八丈島に流された。
島にあること約 50年,配所で没した。
八丈島近世配流1号の宇喜多秀家史跡を巡ってきました。
空港から結構歩きました。
島内移動はタクシー、レンタカーが主流なようです。
街中のウオーキングで民家の間を抜けて行きます。
Googleの手助けが無いと不便です。
道々の看板に上がっているお名前は宇喜多家関係者もおられますが、戦国時代に関東管領上杉氏の代官として派遣された家臣の子孫の方が多いとのこと。
近くの宇喜多秀家居宅跡とあわせて巡る方がいいでしょう。
大雨で風も強かったがどうしても訪れたかったのでお参りした。
浮田や、喜多など関係する家系のお墓もある。
歴史を感じさせる場所であった。
宇喜多秀家は関ヶ原で敗れ、1606年に八丈島に流されてきました。
以後八丈島で暮らし1655年にこの地で亡くなりました。
八丈島に流された宇喜多秀家の墓。
名前 |
宇喜多秀家の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
八丈島へ行ったら、ちょっと歴史に触れてみよう🎵