歴史を感じる香椎宮近くの碑。
軍艦香椎顕彰之碑の特徴
立派な碑が歴史を感じさせる貴重な場所です。
軍艦香椎は昭和15年に竣工した練習巡洋艦です。
香椎宮の社務所の隣に位置している位置も魅力です。
凄く立派な碑で、素晴らしい場所に建てられています。
周りに刻まれたお名前を見ると、その多さに何ともやるせない気持ちになりました。
「香椎」の名付けについて疑問のレビューがありましたので、お答えすると。
香取型は「練習巡洋艦」であり「軽巡洋艦」ではありません。
名付けの縛りは神宮です。
一番艦 香取/香取神宮(千葉県)二番艦 鹿島/鹿島神宮(茨城県)三番艦 香椎/香椎宮(当地 福岡県)四番艦 橿原(建造中止)/橿原神宮(奈良県)香取型の名は現在も海上自衛隊の練習艦に受け継がれています。
日本の軽巡洋艦って川から名前とってるのに香椎は神社からなんだね……何事にも例外はあるってか?
15日に台風が来てしまったが為に1日半を無駄にしてしまいました。
そのため16日は福岡県の広い範囲を移動して19:00新門司発のフェリーに間に合わせなければならなくなってしまいました。
軍艦香椎顕彰の碑太刀洗平和記念館(朝倉市)飯塚市歴史資料館(飯塚市)軍艦防波堤と慰霊碑(北九州市若松区響灘と高塔山)をバイクで移動するには2ルートで考えました。
ポイントは戦艦金剛の旭日旗のある飯塚市歴史資料館。
前日に確認したら展示しているとのこと。
ルートは太刀洗→飯塚市→軍艦防波堤と決めました。
が!6:30にでて3号線を北上したら30分もしないうちに太刀洗に通ずる国道500号に近づく。
開場は9:00から。
あれ、香椎宮行けそう!その後太刀洗行けば間に合いそう。
という訳で3号線でそのまま行けるので行って来ました。
香椎宮の最寄りの駅は香椎神宮が近いですね。
駐車場も十分にあります。
軍艦香椎顕彰の碑は香椎宮にあります。
そばにある香椎顕彰碑を読むと無念としか言いようがありません。
生還された方も17人しかいらっしゃいません。
顕彰の碑の周りには戦没された方々のお名前が刻んでありますが大変な数です。
軍艦香椎顕彰之碑は、香椎宮の社務所の東隣りに昭和56年に建立されました。
軍艦香椎は、練習巡洋艦として姉妹艦香取、鹿島に次いて昭和十五年七月十五日、三菱重工横浜造船所にて竣工しました。
初代艦長岩渕三次大佐・香椎宮に詣で、御分身を請願され、守護神として奉載し就役しました。
既に時局は急を告げ、旗艦として直ちに南部仏印に進駐の陸軍部隊を護衛し、サイゴンに進出しました。
大東亜戦争開始に当り、我が国の運命を屠して敢行しました。
山下奉文将軍麾下第二十五軍の大部隊の船団を護衛し、タイ国シンゴラ、コタバル等の上陸作戦を支援し、シンガポール攻略の端緒を開きました。
以後全作戦の支援を主任務とし、南支那海は勿論西は印度洋、東は遠くラバウルに至る広大なる海域を、総航程一万五千浬に及ぶ作戦行動に従事しました。
昭和二十年一月十二日、第一〇一戦隊の旗艦として、航空燃料などの強行輸送船団を護衛し航行中、仏印キノン沖で、敵機動艦隊の艦載機延三〇〇有余の執拗な攻撃を受け、克く奮戦激闘しましたが、被害累積し十隻の船団悉く撃沈され、「最後に香椎は魚雷二本、中部及び後部に命中」艦は一瞬にして棒立ちとなるも、機銃は尚も応戦、司令官渋谷紫郎 少将 艦長松村翠大佐以下死闘後遂に力尽きて、艦と運命を共にせし者 便乗者を含め一千余名、生存者は兵員僅か十七名に過ぎませんでした。
軍艦香椎の顕彰の碑を建立し艦と共に短い生涯を閉じた英霊の勇戦労苦を偲ひ、祖国日本の興隆を祈念して軍艦香椎顕彰之碑が建立されました。
英霊に合掌。
軍艦香椎は、練習巡洋艦として姉妹艦香取、鹿島に次いで、昭和15年7月15日、三菱重工横浜造船所にて竣工した。
昭和20年1月12日仏印キノン沖で、航空燃料等の強行輸送船団を護衛し出航中、敵機動艦隊の艦搭載機延300有余の攻撃を受け、10隻の船団が撃沈され、『最後に香椎は魚雷二本、中部及び後部に命中』艦は一瞬にして棒立ちになるも、機銃は尚も応戦、司令官渋谷紫郎少尉 艦長松村翠大佐以下死闘後遂に力尽きて、艦と運命を共にせし者、便乗者を含め一千余名、生存者は兵員僅か17名にすぎず。
その死しても止まざる殉国の気魂は、米軍をして、心胆を寒からしめ、深く感銘を与え戦火の記録に特筆せしむ。
名前 |
軍艦香椎顕彰之碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.6 |
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歴史を感じました。