種田山頭火句碑(句碑公園)の特徴
名前 |
種田山頭火句碑(句碑公園) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.0 |
1882(明治15)年「山口県防府市」に生まれ、1940(昭和15)年「愛媛県松山市」で59年の生涯を閉じるまで、僧形乞食の風体で放浪漂白に徹した「種田山頭火」は、「尾崎放哉」とともに「荻原井泉水」門下の自由律俳句を代表する俳人だ。
ともに酒癖で生活を持ち崩した二人で、「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と山頭火は晩年に記しているが、傾倒する酒と漂白の俳人「井上井月」(山頭火は日記に「漂白俳人 井上井月全集」について「よい本だった。
今までに読んでいなければならない本だった。
井月の墓は好きだ、書はほんとうにうまい」と記し、また「いつも考えるのは、路通や井月のことである。
彼等の酒好きや最期のことである」と記している。
)の墓参を目的に1934(昭和9)年4月14日木曽から「清内路峠」越えで伊那谷に入っている。
しかし「飯田町」(現在の「飯田市」)で発熱のため緊急入院することとなり、目的の「井上井月」の墓参を果たすことができないまま28日に飯田線経由で山口に帰っている(1939/昭和14年5月に再び伊那谷を訪れ墓参の目的を果たしている)が、行脚での「山なみ遠く信濃の國の山羊がなく」の句碑は「阿智村清内路」の国道265号線脇のやや蕪雑な趣の「句碑公園」に建立されている。