以仁王を祀る高倉神社。
高倉神社の特徴
高倉神社は1180年に討ち死にした以仁王を祀る神社です。
境内はよく整備され、白馬が印象的です。
隣接する以仁王の御墓は必見の歴史的スポットです。
1180年に平家討伐に立ち上がった以仁王が討ち死にした場所にある神社。
以仁王を当時の村人が哀れに思って祭ったのが起こりです。
今は専従の神職はおらず地域の人が管理しています。
たまたま神社の木材の補修をしていた宮守の地域の人に中に入れてもらい色々教えてもらいました。
年単位で当番らしく、祝詞を月一回あげたりする以外に色々作業があるそうです。
近江国とゆかりが強く三井寺の僧兵が挙兵に参加したり、以仁王末裔の30代目の方が琵琶湖の北の海津にいるそうです。
境内の白馬の像はその末裔の方が以仁王のため生きた白馬を神社に奉納しようとして、神社では飼えないからとお断りしたところ像が奉納されたとか。
裏に寄贈した方の名前がありますが、その方が以仁王の末裔です。
対向車が来たらすれ違い不可の道に面してありますが駐車場があるので助かります。
以仁王の挙兵に関する史跡を巡ってきました。
▼頼政らの献身により南都興福寺方面へ逃れた以仁王ですが、やはり途中木津川の畔で平家軍に追いつかれます。
▼南都の僧兵も、以仁王らのピンチを助けるため、興福寺から7千人で出発します。
▼南都の息の掛かった奈良北側の山岳地域に光明山寺という大寺院がありました。
▼何故か現在は完全に廃寺になっているらしく、全く寺跡も見当りません。
▼今では幻となったこの寺院に、以仁王ら30騎はひとまず逃げ込もうとします。
▼しかし、そうはさせじと、追撃してきた平家軍は多数の兵力で、以仁王らに雨あられのように矢を降らせます。
▼そしてその1矢が、あと石階段を数段登れば、光明山寺の門内に逃げ込めるというギリギリのタイミングで以仁王に突き刺さるのです。
▼光明山寺内に逃げ込み、南都の僧兵7千人が光明山寺に到着していたのなら、また、その後の以仁王の運命も変わっていたのかもしれません。
▼以仁王の墓所は、光明山寺跡から少し離れた北西西約5㎞、木津川の近くのこの高倉神社にあります。
▼以仁王の墓の横は小さな公園になっており、子供たちが鉄棒等で遊んでいました。
なんとのどかなささやかな世界の片隅なのでしょうか。
▼しかし、歴史を冷静に見れば、以仁王の令旨があったからこそ、源(木曽)義仲、源(武田)信義、源行家、源頼朝、源希義ら源氏軍団が挙兵。
▼平家を滅ぼし、頼朝が武士の府である鎌倉幕府を開き、以後700年間武士の時代が続く、このトリガーを切ったのはこの二人なのですから。
▼ちなみに頼朝は石橋山合戦時にも、この以仁王の令旨を鎗の先に括り付けて戦ったとの伝承もあります。
▼そんな大層なことをしたことを以仁王ご自身が気が付いていないような控えめなお墓に、800年前の彼の人格が現れているような気がしました。
1年程前に高倉宮跡・3ケ月前は平等院・今回は高倉神社.まるで以仁王の追っかけですね。
社前の駐車場に車を止め、小ぶりな境内を散策、本殿・御墓・公民館・児童遊園地等が在り今は地域のコミニティー感が感じられました。
此処に以仁王が祀られ所以は、以仁王が出した平家への追討を記した令旨が起点となり以仁王自身不幸にもこの地で討死した事によるのですが、後この令旨が生かされ源頼朝・木曽義仲等源氏の挙兵、鎌倉幕府へと繋がった感がします。
本当は以仁王が30才の若さで討死した鳥居を含めた光明山寺があったとされる綺田地区を散策するつもりでしたが雨が降ってきたので諦めました。
次回へ🏹
治承4年(1180)平家打倒の兵を挙げた後白河天皇の第2皇子以仁王(高倉宮)を祀る神社。
宇治川橋合戦に敗れ、南都に逃れる途中、光明山寺の鳥居のあった当所にて、流れ矢にあたって戦死し、近くにあったこの社に葬られた。
墓はこの神社の隣にあり、少し南方にある筒井浄しょうの塚と伴に宮内庁の管理墓と成っている。
以仁王は高倉宮と言われていたので墓に隣接するこの神社は高倉神社と呼ばれるのでしょうが、神社によくある~神社と刻んだ神社名の石碑は見つけることが出来ませんでした。
境内もよく整備され、 白馬が印象的。
本殿も なかなか立派なものだった。
以仁王御墓を探していたら、この神社のほぼ境内にありました。
どうやら以仁王をお祀りするための神社のようです。
そのせいか同じような大きさの神社とかなり雰囲気が違いますね。
拝殿の奥に賽銭箱が見えるのですが、拝殿の扉があってそこまで行けませんでした。
地元の人が散歩途中にひと休みできるようなベンチもなく、何かノーウエルカムな感じの神社でした。
高倉神社は、平安時代末期(12世紀)の後白河法皇の第二皇子以仁王を祀る神社で、隣接して以仁王の御墓があります。
『平家物語』によると以仁王は、治承4年 (1180) に平清盛とその一族の追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力にあてて出しました。
このことが露見したため平家に追われた王は、南都の興福寺をたよって都を落ちる途中、この地つまり「光明山寺の鳥居の前」で流れ矢に当たって落命されたとあります。
後に王の御霊を祀ったのが、この神社の起こりです。
見どころ付近には、王落命の祈りに仏事を営んだとされる阿弥陀寺や、都を落ちる王に従って宇治橋の合戦で活躍した筒井浄妙の墓と伝える塚(浄妙塚)があります。
なお、現在、以仁王の御墓と浄妙塚は宮内庁が管理しています。
高倉神社は山背古道にほぼ沿った立地で、付近には道標もあり訪ねやすいところです。
数台分の駐車スペースもあります。
高倉神社から筒井浄妙塚へ徒歩で向かえば、途中の道端で名もなき石仏さまに出会えます。
筒井浄妙塚は田畑の中にあるので、徒歩で訪ねてください。
玉水駅を出発地に、高倉神社→以仁王墓→筒井浄妙塚→山背古道を歩いて約2kmほど離れたところにある涌出宮→棚倉駅を終着地にすれば、ウォーキングコースとしても楽しめそうです。
見どころあふれる地区です。
アクセスJR玉水駅から徒歩約23分または、コミュニティーバス山城線「神ノ木」下車、徒歩約3分。
高倉神社は、平安時代末期(12世紀)の後白河法皇の第二皇子以仁王を祀る神社で、隣接して以仁王の御墓があります。
『平家物語』によると以仁王は、治承4年 (1180) に平清盛とその一族の追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力にあてて出しました。
このことが露見したため平家に追われた王は、南都の興福寺をたよって都を落ちる途中、この地つまり「光明山寺の鳥居の前」で流れ矢に当たって落命されたとあります。
後に王の御霊を祀ったのが、この神社の起こりです。
見どころ付近には、王落命の祈りに仏事を営んだとされる阿弥陀寺や、都を落ちる王に従って宇治橋の合戦で活躍した筒井浄妙の墓と伝える塚(浄妙塚)があります。
なお、現在、以仁王の御墓と浄妙塚は宮内庁が管理しています。
高倉神社は山背古道にほぼ沿った立地で、付近には道標もあり訪ねやすいところです。
数台分の駐車スペースもあります。
高倉神社から筒井浄妙塚へ徒歩で向かえば、途中の道端で名もなき石仏さまに出会えます。
筒井浄妙塚は田畑の中にあるので、徒歩で訪ねてください。
玉水駅を出発地に、高倉神社→以仁王墓→筒井浄妙塚→山背古道を歩いて約2kmほど離れたところにある涌出宮→棚倉駅を終着地にすれば、ウォーキングコースとしても楽しめそうです。
見どころあふれる地区です。
アクセスJR玉水駅から徒歩約23分または、コミュニティーバス山城線「神ノ木」下車、徒歩約3分。
名前 |
高倉神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0774-86-2250 |
住所 |
|
関連サイト |
https://www.city.kizugawa.lg.jp/index.cfm/8,28725,36,420,html |
評価 |
3.9 |
周辺のオススメ

高倉神社の創建年代は不明です。
祭神は、後白河法皇の第二皇子である以仁王と天児屋命(あめのこやねのみこと:中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ))です。
神社に隣接して以仁王の御墓があります。
治承4年(1180)、 平家に追われた以仁王がこの地で流れ矢に当たって命を落とし、後にこの神社が創建されました。