まあ、この辺だったのでしょう(^_^;)
工事中で石碑がぽつんとあるのみ。
どんなふうになるのでしょうか。
市役所の敷地内。
”犬伏の別れ”で有名な佐野市の新町薬師堂を訪れた後、ここを訪れました。
車で国道50号線を東に向かうと距離にして約20キロ、30分程で着きました。
いずれも会津討伐に向かう途中の史跡なのでとても近いです。
場所自体は小山市役所の敷地内にあり、工事中だったので史跡らしい雰囲気はありませんでした。
小山評定以前から石田三成と武断派の加藤清正や福島正則との間には大きな溝があり、老獪な家康がそれを上手く利用して流れを作ったんですね。
ここからさらに東に向かうと結城城跡や下館城跡がありますので東西に伸びる国道50号線はまるで城跡の銀座通り?です。
(笑)
小山評定の碑は須賀神社にありますが評定跡は市役所の敷地内にあります。
小山評定については賛否ありますが歴史好きの方であれば一度は訪れることをお勧めしたいスポットです。
浪漫溢れる場所です。
裏手では城山補強をしています。
当時と現代をかけ合わせて妄想すると中々面白い物です。
上杉景勝を討伐するために会津に向かう途中で本陣を置いた際、石田三成か挙兵した報を受け翌日には諸将を集めて軍議を開き、結束を固めて石田三成を討伐するために西上することを決した場所です。
関ヶ原の合戦前に行われた評定の跡。
小山市役所の一角にある。
近隣には小山城や鷲城がある。
関ヶ原の戦いの時に勝利をもたらす為に開かれた有名な軍議会議小山評定の歴史を今に伝える石碑🌿🌿🌿この会議があったからこそ徳川家康殿が天下人になれたと言われている🦉石碑は新しい市庁舎建設の為に木々が取り払えられて威厳がなくなっている感じでなんだかなと言う気持ちにさせられました😞😞😞一応、国の史跡には指定されています✨✨✨
小山評定は、徳川家三百年の安泰の道筋をつけた重要な軍議で、慶長5年(1600)に、ここ小山の地で軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したこれが世にいう「小山評定」ですが、何故この地に石碑があるの。
ここも須賀神社の境内だったの。
慶長5年(1600年)4月、上杉景勝は家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。
この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。
この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。
慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。
入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。
同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。
ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。
「小山評定」とは慶長5年7月25日下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことを指す。
その場では福島正則が進んで家康の味方を表明し、山内一豊が徳川軍への居城明け渡しを申し出たことなどによって諸大名は家康のもとに団結し、会津征伐中断と上洛が決定したとされてきた。
これまで関ヶ原の戦役におけるターニングポイントの一つと扱われてきた「小山評定」であるが、軍議における家康や諸大名の言動は「慶長記」・「関原始末記」等寛永・慶安期以降に作成された二次史料に記されているものであり、一次史料からは確認されない。
令和2年2月現在 小山御殿発掘調査中・・・か、工事中。
こことすこし南の須賀神社に碑があります。
関ヶ原の戦いに至るまでの重要ポイントといえる小山評定。
慶長5年(1600年)7月25日に行なわれたとされる小山評定は、内容はかなり詳細に知られているにもかかわらず、行なわれた場所は小山市役所内のこの場所と、ここから徒歩5分程度南にある須賀神社の説があり、それぞれ跡碑が建っています。
双方 近い場所にあるので、個人的には まあこの辺りというアバウトな感じで良いかと思います。
どちらも今の日光街道(国道4号)沿いにありますし、『小山評定通り』という名前もついています。
市役所の前に石碑があるだけですが、大河ドラマ等で紹介されるシーンが頭をよぎり感慨深いです。
徳川家康が会津征伐のため小山まで軍を進めていたとき、上方で石田三成ら西軍が挙兵したとの報を受けた。
家康の東軍が勝つためには、東軍の結束力を高めることと東海道の兵站拠点を確保する必要があった。
小山軍議で山内一豊が掛川城と城の兵糧を提供する旨の申し出があった。
諸将これに続き、東海道は戦わずして東軍が抑えることができた。
中山道を進軍した別働隊の秀忠軍は信州上田城で真田昌幸の抵抗に遭い、足止め。
秀忠は関ヶ原の合戦に間に合わなかった。
市役所敷地内に小山評定跡碑がありますが、南に少し行った須賀神社(祇園社)にもあり分裂しております。
場所を確定する一次史料がないため、この市役所含むかつての小山城(祇園城)〜須賀神社の広大な敷地内のどこかで評定が行われたという事でしょう。
要するに、適当な石碑しか残っていません。
しかし背後に天然の堀である思川、すぐ脇を国道4号(日本橋からの日光街道)が通り、江戸方面からこの道を行軍してきたのを感じる事が出来ます。
また小山駅からの上野東京ラインは小田原行きが走り、秀吉が小田原から宇都宮仕置に行軍したのを思い出したりも。
なお2018年現在、市役所建替工事のため仮移転工事中です。
歴史上有名な場所です。
まあ、この辺だったのでしょう(^_^;)
小山市役所前にあります石碑と御殿跡地があり、御殿跡地には建物があった場所に石が敷いてあります。
小山市役所前にあります石碑と御殿跡地があり、御殿跡地には建物があった場所に石が敷いてあります。
何度か伺いました。
歴史的な場所。
綺麗な公園になってます。
須賀神社さんは…うちこそが評定跡地だと言ってるらしいです(^-^;
名前 |
小山評定跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
2023年の時代劇の(どうする家康)を、やっていてこの地は、1600年の関ヶ原の戦いの前にここで北の上杉軍か南の豊臣軍のどちらに行くかここで軍議した場所です。
まさにどっちにいくかどうする?となった場所です。
この場面もでて欲しい。