地味だけれど、味のある山城。
地味だけれど、味のある山城。
武居城跡重ね城(かさねじょう) (1011m/211m)築城・居住者 三村忠親場所・東筑摩郡朝日村西洗馬堀切土塁郭城跡までの所要時間約30分三村家親・忠親・長親・勝親名門清和源氏頼親流三村氏の山城跡長野県史跡 武居城跡武居城の初めは鎌倉末期洗馬の庄に新補地頭として入って来た三村氏が築いたと言われている。
16世紀の初め頃三村氏が本拠を芦の田に移すまではこの城が三村氏にとって最も重要な城であった。
その後も城の改修が続けられ現在の遺構は戦国時代末期のものである。
城は三方からの尾根を二重の堀切で分断し防禦を堅固にしている。
そして堀切の深さや傾斜が大変立派である。
また西側の斜面には横堀の下に多くの竪堀がほられて注目に値する。
各郭の保存状態も極めて良好で小規模な実に良くまとまった縄張りの山城で戦国最末期の城の実態を見事に伝えている。
なおこの城での実践の行われた記録は残っていない。
源頼親・頼成・仲綱・満宗・定満・源三村親綱(三村と号す)・仲親・仲氏・仲宗・親綱・親継・忠親(1)・親朝・家親・忠親(2)・長親・勝親・三村家親三村家親嫡男忠親信濃守護小笠原家より姫君を三村忠親の正室として貰い受ける姫君は小笠原長棟娘とも小笠原長時娘とも云わる三村忠親と小笠原家の姫君の間に生まれたのが三村長親である代々受け継いぐ小笠原氏の通字は・・・長と清三村氏の通字は・・・・親と彌信濃洗馬城主三村忠親と信濃守護林城主小笠原家の姫君との間に生まれた三村長親の名は小笠原家の長と三村家の親を一字づつ受け継いだ名と伝えられている。
三村忠親嫡男長親天文24年(1555年)死去官位信濃守(受領名)主君・小笠原長時→武田信玄以下Wikipediaより三村 長親(みむら ながちか)天文24年(1555年)甲府の一蓮寺に在泊中謀反の疑いをかけられて一族共々誅殺された。
以上Wikipediaより引用謀反の疑いをかけられて一族共々誅殺された。
と有るが、滅亡している訳では無い。
三村長親ニ男勝親天正15年(1587)死去長親二男勝親が長親死後32年も後に亡くなっている事等の物的証拠から滅亡していない事の証明は十分出来る。
以前は数多くインターネットで書かれていました信濃三村氏滅亡ですが(現在修正中)従って信濃三村氏は滅亡しておりません。
補足三村長親嫡男長行は叔父にあたる岡田伊深城主で洗馬郷をも管掌していた後庁城主の後庁出羽守久親の養嗣子となって後庁を相続しこれを名字とし三村長行改め移行は後庁長行と名乗った。
ご覧の様に・・・インターネットの情報が全てではありませんし間違っている所も多々御座います。
名前 |
武居城公園 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
子供を連れて遊びに行きます。
駐車場はあります。
小川があり、湿地もできています。
カエルが沢山います。