4月27日、八重桜が三分咲き!
源平倶利伽羅峠古戦場跡 / / .
山頂が公園として整備されています。
源平の合戦場として訪問したい地でした。
お手洗いあります。
静かな場所ですね。
展望台が有って、史跡が有って、ちょっとしたパワースポット感も有りました。
源氏と平家の争いで、かの有名な戦術「火牛の計(かぎゅうのけい)」が行われた倶利伽羅源平合戦場跡です。
【火牛の計】源氏軍は平家の動きに合わせて味方の軍を7手に分け配置させ、夜が更けるのを待っていました。
夜半に北側の黒谷の方角から、400から500頭もの牛の角に松明(たいまつ)を付け、4万余騎の軍勢とともに平家の陣に突入しました。
昼間の進軍で疲れ切っていた平家軍1万8千余騎は、源氏軍の奇襲に混乱し、何もできずに追い詰められ、人馬もろとも地獄谷に突き落とされました。
Google Map上にポイントがいくつもあって、どこにクチコミを入れるか迷いましたが、名前的にはここが一番しっくりくるかなと。
道の駅に倶利伽羅峠の戦いの配置図があり、そこから主戦場に向かうと、かなり草木が濃い山でした。
おそらく街道以外の全うな道はなく、昼間でも敵側を把握することは難しかったかと。
平野ではなく、そんな場所を選んだ(誘い込めた)時点で、木曽義仲は相当有利だったのだと思いました。
「やぁやぁ我こそは」の時代に、更に夜襲u0026火牛と、、天才です。
今年は本当に雪が多かっただけあって、ここはまだ車では途中までしか行けないので恐らく3月下旬までは難しいのでは、近道が通行止でなおさら遠回りで行きにくいです。
今年は桜が早く開きすきた。
京への進軍を阻止したい平家軍と上洛を目指す木曾義仲軍との間で合戦が行われた戦場跡。
歴史を感じられる木曽義仲の火牛の計の像がある。
くりからとうげの戦い源(木曾)義仲が平氏に勝利したことで有名。
4月27日、八重桜が三分咲き!でもキレイだった!
駐車場からは道路も整備されていて、すぐです。
有名な「火牛の計」ですが、牛はどこから集めたのでしょうか?険しい山の頂上付近なので農家など無いです。
麓から牛のお尻を叩きながら連れてきたのでしょうか?何か変。
帰りは急な下り坂なのでスピードを落として。
木曽義仲が勝った戦。
平家にとっては大きな敗戦。
時代が動いた瞬間でしょうね。
公家政治が終わりを告げる瞬間でもあります。
歴史街道を歩いてるとあります。
楽しく気楽に歩けます。
倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、または、砺波山の戦い(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。
治承・寿永の乱における戦いの一つ。
平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。
浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。
大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。
平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。
平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。
この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。
大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。
『源平盛衰記』には、この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。
Website【源平倶利伽羅の戦い-Wikipedia】から引用。
八重桜の季節が素晴らしい。
倶利伽羅駅から徒歩で向かったが、山道で熊も出るとのことなので止めた方がよい。
名前 |
源平倶利伽羅峠古戦場跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://kankou.town.tsubata.ishikawa.jp/content/detail.php?id=40 |
評価 |
3.8 |
人が少なく安全で、富山の方から行ってきました。
山道も気持ちよかった。