城址とあるが実体は地元民が散歩する公園。
元々は天守や櫓が立ち並ぶ壮大な城だったようですが、現在は市街地化によって石垣や建物跡が断片的に残る程度です。
なお二重櫓風の建物は水門管理所です。
桑名城は明治維新期に築港工事によって石垣が剥ぎ取られ、当時の石垣はごく一部にしか残っていない。
水堀の位置も若干違うように思える。
もしも残っていれば水城として今よりずっと観光地の価値があったであろう。
⭐️関ヶ原の戦い後、上総大多喜城から徳川四天王の一人本多忠勝が10万石で入封🐎1601年/慶長6年から縄張り普請開始、新しい町造り城下町の「慶長の町割」に着手、天守も本丸北東側に作事築城し附櫓のある複合式層塔型4層6重の天守に🏯1635年頃の松平定綱時代に桑名城の全容が完成し「海道の名城」の異名❗️⭐️1701年/元禄14年、町屋から出火、桑名城内にも飛火、武家屋敷や町屋も約1500棟燃え、天守も焼失😵1645年頃作成の正保城絵図には天守描かれ、その後描かれた文政年間桑名市街之図では寂しく天守石垣だけ、天守再建はされず❗️⭐️一重の広さ8間(約14m)×6間(約11m)、4層の高さ約17mが天守、天守の北側と東側は直ぐ水堀、現在その面影全くなし、更に興味深いのが正保や文政の城絵図に天守南側横に枡形を形成する水門が有ること、天守の直ぐ横に「水門」、珍しく興味深い、一種の緊急脱出用の「埋門」的な役割でしょうか🤔★絵図では天守台の北側に附櫓が有るのですが、今の天守台の形状には面影なし、実際だいぶ改変されているのでしょうか?全く現存天守台ではなく外観を何となく復元した物なんでしょうか?現在、倒壊の畏れが有るとの事で天守台には上がれません。
一番有名なのは本田忠勝が入城した1601年(慶長6年)更に幕末は松平容保や一橋慶喜と共に京都で一会桑(いっかいそう:一橋家:会津藩:桑名藩)を一橋慶喜・松平容保・松平定敬共に結成しました。
最終的に公武合体を一会桑では果たす事は出来ませんでした。
戦国史・幕末史が好きな方は訪れて損はないと思います。
桜開花の時期に訪れましたが眺めは良かったです。
桑名市はどうしてこんな立派な上に高名な本多忠勝の居城であった桑名城をほとんどほったらかしにしてるんやろしかも石垣が崩れるかも知れんから天守跡に上るん禁止て…💦ある意味謎に満ちた城やなー😓ひょっとしたら薩長の圧力が未だに…
せっかく立派な水堀や天守台があるのだから、復元に向けて桑名市はもうちょっと本腰入れてほしい。
徳川四天王の1人で戦国武将人気ランキングでも上位に入る本多忠勝の居城でもあるし、武将隊など上手く使って観光アピールしたら良いのに🤔
巨大な水堀と小さな天守台跡案内があるのみ。
城跡は九華公園となっている。
鎮國守國神社の右奥に天守台跡がある。
関ヶ原の戦いの後、本多忠勝が築いた水城。
桑名駅から20分に1本のバスで田町下車、徒歩5分程でアクセス可。
天守は江戸中期の大火で焼失し、櫓も明治新政府によって破壊され、濠とわずかな石垣ぐらいしか残っていない城跡です。
赤い橋がお濠に架かっていて風情を醸し出している綺麗な公園でした。
ところで辰巳櫓跡に大砲が置いてありました。
…これはなんなのでしょう(・・?柿安本店の前に本多忠勝の像が置かれてありましたが、ここは城跡ですよ…って言われないと本当にわかんないかもしれません(^_^;)お天気の良い日に…柿安でお弁当買って…九華公園でゆったりとした時間を過ごすのもちょっとした贅沢かもしれませんね。
□概要★★★★こちらは桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城です。
桑名城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があって、かつては交通の要衝となっていました。
歌川広重の東海道五十三次「桑名」に往時の城が描かれていることは有名です。
幕末の桑名藩主・松平定敬は京都所司代を務めた幕府の重鎮。
戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍ともに江戸に向かい、将軍・徳川慶喜に従い江戸の霊巌寺で謹慎。
そのため、桑名は留守になりました。
会津藩と並んで新政府からは敵視されていた桑名藩ですが(朝敵第1等が徳川慶喜、第2等が松平定敬と会津藩主・松平容保)臣下は無血開城を決め、その証として明治政府軍は桑名城を全て焼き払ってしまったのです。
城跡には現存建造物はなく、わずかな石垣や堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されています。
平成15年(2003年)に国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって、かつての蟠龍櫓跡(ばんりゅうやぐらあと)に建てることとなり、蟠龍櫓の外観復元を行ないました。
東海道名所改正道中記(三代目歌川広重)…の描いた浮世絵が最も参考にされたもののようです。
蟠龍櫓は二重櫓で1階は水門管理所となっていますが、2階は桑名市所管の展望台兼資料室となっています。
□アクセス★★★〜桑名駅から九華公園までの所要時間〜《徒歩》桑名駅東口より徒歩約17分《バス》「本町」下車、徒歩約3分。
別名:扇城、旭城桑名城の本丸、二の丸のあった場所を整備して公園になっています。
城の痕跡は石垣や堀のみ!桑名城は結構広いお城だったんですね。
ここを居城とした徳川四天王の本多忠勝の像があります!すごく綺麗な公園です。
桜や紅葉の時期良さそうですね。
九華公園。
(九華は桑名の古い呼び方)本多忠勝の居城。
城跡としての遺構はほとんどなく、公園としての整備が進んでいる印象。
公園内には本多忠勝像もある。
桜やツツジが多く植えられているので、季節によっては美しいだろうと思われる。
城跡として見に行くと、見所少なめかなと感じる。
城跡が公園になっていて、めちゃめちゃ立派な天守台と城郭がしっかり残っています。
入口の本田忠勝像もカッコいい!戊辰戦争では、藩主が函館五稜郭まで転戦して最後まで戦ったとのことで、戦死した藩士の慰霊碑も建っていました。
徳川四天王の一人。
本多忠勝が桑名に入封後に築城した城。
幕末の戊辰戦争では新政府に恭順し、無血開城した。
城跡は九華公園となっている。
大城郭ではあるが、石垣や堀の一部しか残っておらず、蟠龍櫓のみ外観復元した。
桑名城(くわなじょう)は、三重県桑名市にあった日本の城である。
江戸時代は伊勢桑名藩の藩庁が置かれた。
桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城である。
城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があり、交通の要衝となっていた。
歌川広重の東海道五十三次「桑名」に往時の城が描かれている。
城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華公園として整備されている。
平成15年(2003年)に国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって、かつての蟠龍櫓跡に建てることとなり、蟠龍櫓を外観復元した。
二重櫓であり、1階は水門管理所となっているが、2階は桑名市所管の展望台兼資料室となっている。
戦国時代の桑名の地には北勢四十八家と呼ばれる土豪が蟠踞(ばんきょ)して、伊藤氏の伊藤武左衛門の東城、樋口氏の樋口内蔵の西城、矢部氏の矢部右馬允の三崎城の桑名三城と呼ばれる城があった。
現在の桑名城は東城があった辺りであり、永正10年(1513年)に伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源と考えられている。
天正2年(1574年)織田信長がこの地を征し、部将の滝川一益が三城を配下に置いた。
その後、豊臣秀吉の時代になると神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と支配者が目まぐるしく入れ替わった。
関ヶ原の戦い後、覇者となった徳川家康は慶長6年(1601年)徳川四天王の本多忠勝を桑名10万石に封じた。
忠勝は入封直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始した。
城には船着場も整備し、4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多聞が立ち並んだ。
また同時に城下町も整備された。
築城開始当初には四天王の一人である井伊直政も家臣を動員して普請の応援を行ったという逸話がある。
元和3年(1617年)2代忠政は播磨姫路藩に移封となり、代わって松平定勝が入城。
松平定重の時代、元禄14年(1701年)には桑名市街地の過半を焼く大火に遭い、この際に天守も焼失し以後再建はされなかった。
宝永7年(1710年)定重は越後高田藩に移封となり、代わって松平(奥平)忠雅が入城し7代続いた後、文政6年(1823年)に武蔵忍藩に移封となった。
代わって松平(久松)定永が入城。
先に高田に移封となった久松家の再入城となった。
この際に藩祖である松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀る鎮国守国神社を城内に勧進した。
幕末には松平容保の実弟である松平定敬が藩主となり、京都所司代として兄と共に京都の治安を預かった。
大政奉還の後の慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に定敬も江戸に向かった。
藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり鎮国守国神社の神籤により上層部では抗戦と決定したが、下級藩士の猛反発にあい、結局は無血開城した。
明治政府軍はこの際に辰巳櫓を焼き払い開城の証とした。
松平定信没後100年にあたる昭和3年(1928年)に本丸・二之丸一帯を整備し九華公園とした。
昭和17年(1942年)には三重県の史跡に指定された。
平成15年(2003年)には国土交通省水門統合管理所を建造するにあたって蟠龍櫓を外観復元した。
桑名城の堀の石垣は四日市港建設時の材料に成りました。伊藤竹左江門が戦国時代の居城です織田信長に落とされた、江戸時代徳川四天王の本田忠勝が大きくして居城としました九華公園として一部が残されました、、築城の時の行事が石取り祭りで世界遺産となりました、彫り物が素晴らしく一台一億円掛かるのではと聞きました、色んな彫刻家が彫っています高村光雲作もあります、36台前後の山車が春日神社を中心に8月の第一土日に町中を引き回されます神社には妖刀村正が保存されています、揖斐長良川を背にした城作りとなっています4月が桜5月5日前後のツツジ6月が菖蒲が咲きます。
かつては桑名城にも天守があったのですが、元禄14年(1701年)の大火で失われてしまいました。
その後は本丸の辰巳櫓が天守の代わりをしていたそうです。
現在、天守台跡には明治時代に建てられた戊辰戦争で戦死した桑名藩士の慰霊碑があります。
天守台があると思い探しましたが、それらしいものは見つかりませんでした。
ただ海に面した城跡が公園になっていて、散歩するのも楽しかった。
堀も残っていて城跡の雰囲気は充分でした。
三重県指定史跡桑名城跡1601年本多忠勝が初代藩主として町割りや城を整備しました。
明治維新後に城の役割を終えると石垣が四日市港の整備に転用されました。
見どころは城北外堀に一部現存する石垣と、蟠龍櫓(外観復元)国交省水門統合管理所の建物。
それと、立派な本多忠勝像があります。
跡地であり,当時の面影はない。
桑名駅から約2キロ。
やや離れているが,近くまで行くバスがある。
池には,ミドリガメが大量に繁殖している。
川沿いには,「七里の渡し」などちょっとした見所がある。
広い敷地に見事な桜が満開でした。
広々としていて、他の観光客との距離も十分に取れて寛げました。
駐車場に入る車の渋滞が長く続いていたので、公共交通機関の利用をオススメします。
桜を見にきました。
予想通り激混みでした。
無料駐車場を利用。
距離も近く空いていましたが、有料が渋滞になっていて不思議なかんじでした。
トイレが少ないので注意が必要です。
犬はOK。
今では九華公園だが、その当時を偲ばせる辰巳櫓跡があるだけでも十分に思いを馳せることができる。
何より築城当時の石垣が残っているだけでも涙があふれる十分条件となる。
立見尚文の名前が刻まれた石碑発見。
戊辰戦争では負け知らず。
桑名藩は敗戦したが、陸軍大将となり日露戦争では黒溝台会戦ではロシアを退却させた立役者。
もっと脚光を浴びても良いのだか。
桑名城址も九華公園も同じ。
桑名市民のソウルプレイス。
桜の季節と5月の金魚祭り、夏の水郷花火大会は市民で賑わいます。
土俵があり、名古屋場所の際には相撲部屋の宿舎になり稽古の様子が見学できます。
桜の季節はお堀をぐるりと舟で巡るイベントもやってました(500円)。
屋台も出てます。
城址とあるが実体は地元民が散歩する公園。
それほど広くないが海が近いので周囲の堀にはウミネコが羽を休めてる。
春には桜。
あくまで地元民の為の場。
故に平素はそれほど意識されないが仮になくなるようなことがあれば深く惜しまれるような處。
名前 |
桑名城 天守台跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.city.kuwana.lg.jp/index.cfm/24,11219,234,410,html |
評価 |
3.6 |
1601年本多忠勝が入城。
秋雨勅を行い、天守・三の丸などを新築。
5代藩主松平定綱のときにいは「海道の名城」と言われた。
1701年大火で焼失。
明治時代以降、お城については歴史遺産としての価値はほとんど認められていなかったので、城の石は、四日市港築港に流用されています。