当時の建物は、無いと思う。
大河ドラマ『青天を衝け』第20回、京で謀反人の大沢を捕縛した篤太夫(吉沢亮)と土方歳三(町田啓太)は互いに同じ武州者(篤太夫は武州岡部、歳三は武州多摩)とわかり、2人は親近感を抱く。
そして武州多摩の土方歳三の生家(跡)は子孫の方が今でも普通に生活し、資料館としても開放されてます。
高塚不動にお参りして、土方歳三生家に行き、妻が昔、生家の横に有った離れを貸してもらい、生活していました、風呂釜の火をつけた事がない私に、お手伝いしてもらったりとか、とても、優しく接して頂きました凄く、お世話になったので久しぶりに、見に行ったら懐かしいと、いろいろ昔話をしてくれた。
土方さんの子孫の方がご好意で自宅を開放して下さってるとの子とで月二回のみ(第一第三日曜日)の開館です。
今日はエントランスのみ。
今度また改めて来ます。
名前 |
土方歳三生家跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
高幡不動尊や日野には約30年以前に三多摩七福神巡り(現在は田園調布七福神と成りました)の際に、新撰組の土方歳三の石碑や土方歳三生家跡等々が切っ掛けとして他の「武州多摩郡の出身者で多く、近くに埼玉県の甲武信岳が表現されているように、甲州、武州と信州の命名時期と合致していた事と当時の住職にお聞きした内容も武州多摩郡石田村と人名簿や英名緑に土方歳三の英名緑及び人名簿に」ご座居ました。
更に、戸籍関連等々は寺院で管理していた時代ですので「武州武蔵国又は武州武蔵野国は武士云々をお聞きしたら」当時の住職は「後でお百姓さんが武士に成りたい思いで、勝手に付けた、その後に、神奈川県に編入された(人名簿等を指摘して)」とも言われて居りました。
武州多摩郡出身の攘夷志士「土方歳三、真田範之介等々が」英名緑にご座居ました。
棄葬された回向院屋敷(本所ではご座居ません)を訪れました。
八王子村左入の高木家にある「真田範之介」誕生地の石碑に真田範之介は武州多摩郡左入村(現在の八王子市左入です)の豪農で名主小峰久次郎の長男として誕生して父親久次郎は剣術天然理心流を学び、免許皆伝の印可を受けております。
厚かましく自宅内に仮道場を設け剣に歩む親の背中を見ながら、範之介も自然に剣術の道に入り、剣術の腕を上げました。
小峰家の範之介及び松之助の両兄弟は養子として離れ、逆に高木家から養子を迎え入れ、現在「高木家」を継いでおります。
範之介は19歳で八王子村戸吹村、天然理心流の松崎和多五郎に入門し、剣術の素質があり、通常人達の2年の稽古で1年程度で、中極位の目録迄印可されております。
範之介は憧れの江戸に出て、神田お玉ヶ池の千葉周作の北辰一刀流の玄武館に入門を許され千葉周作の門弟と成ります。
千葉周作は1年後に亡くなり、千葉栄次郎が後を継ぎます。
北辰一刀流でも非凡な才覚を発揮し玄武館の塾頭になるなど実力が評価されます。
範之介は真田家へ養子に行き、小峰軍司からに「真田範之介」に改名しております。
以下は参照ですが、「英名緑等々の記載ですが、新撰組関係者を」列記致します。
「英名緑は範之介が作成」しております。
土方歳三の天然理心流の修得の目録の伝法状の記録が一切残されていないけれど「英名緑」に記載されて居りこの記載は大変貴重です。
江戸には相当の門人が多く、江戸の英名緑が作成予定されましたが、範之介自身が斬られ逝去しているので生存中での各地流派の道場を訪れ英名緑を作成しております。
近藤勇の試衛館(天然理心流)を調べると以下、12名が居りました。
特筆は出身、家族構成で妻子が何人居る事が新たな内容です。
1、中村太吉 24才 江川太郎左衛門支配所 武州多摩郡日野宿住 母妻子3人2、井上源三郎35才 武州多摩郡千人同心井上松五郎の弟、3、佐藤房次郎28才 武州多摩郡千人同心 佐藤惣兵衛の弟・妻子3人4、馬場兵助24才 江川太郎左衛門支配所 武州多摩郡日野宿住5、沖田林太郎38才 阿部播磨守浪人妻子4人、本人含め5人が近藤と同居6、山南敬助28才 松平陸奥守浪人で牛込甘騎町小谷陽之助(近藤周助の門人)地内に罷在7、沖田総司22才 阿部播磨守浪人 住所は牛込加賀屋敷であるが近藤勇方に同居8、長倉新八25才 松前伊豆守浪人 住所は牛込加賀屋敷であるが近藤勇方に同居9、原田佐之助24才 伊予松山浪人10、土方歳三29才 江川太郎左衛門支配所 武州多摩郡石田村11、藤堂平助20才 御当地浪人 当時近藤勇方に同居12、近藤勇30才 四代浪人 当時市ヶ谷加賀屋敷の山川健太郎地借仕 父妻子3人近藤勇の間借り先の同居人12名は剣客として新選組の著名な隊士ですが、同じ仲間と共に日野村で残り、記載されて居りました。
安政7年(1860)3月、八王子村戸吹の天然理心流の松崎和多五郎は牛沼山王社、秋川神明社に天然理心流の大扇額を奉納しております。
また、客分として真田範之介と帯同した北辰一刀流の弟子の名前が載っております。
範之介が江戸に出て 北辰一刀流に移っても、剣術を始めた天然理心流との交遊関係があり、深い絆で結ばれていたのです。
江戸時代での地名ですが、隅田川東側が下総国で、西側は武蔵国と称しております。
また、国会図書館や東大資料編纂室等々を踏まえお話を致します。
「江戸時代では武蔵国は」ご座居ません。
京都が国府「都」で「幕府」が「江戸」です。
三多摩地域は「武州」です。
「横浜や神奈川県を統一した名称」は「相州」です。
江戸時代の三多摩地域は埼玉県を含め「武州」です。
明治時代は「長州や薩摩の江戸を知らない地方の人達」が名称を定めた事は「東京市は15区」です。
「中野や世田谷等々の地域は多摩郡」でした。
三多摩は「神奈川県」でした(板垣大助の自由党の政治問題で、神奈川県より都下に編入したのです)。
何故に「⚪️州」を付して現在も「相州電鉄(神奈川県です)」、「埼玉県の甲武信岳は甲州、武州、信州を境としている故に」付しているのです。
三多摩に入っていた中野、世田谷等々で増え、35区から更に、人工を20万人に絞ったり、南葛飾郡や西葛飾郡等々を特別区に編入させて23区と致しました。
次の時代は「地方分権や道州制度」です。
「何時でも動かせる様に役所所が握って」居る形式が「行政区域」と言っている所以です。
お写真の左側の二枚は土方歳三、次が沖田総司と近藤勇、次の左側の二枚は土方歳三の生誕地です(他にあったのですね)。
新撰組が好きで歴史学の立場上正しく知りたい思いでお尋ねし色々な誤情報を私は資料を編纂中です。
また、寺院とは「自分が内観を訪ねて成長する場所(仏像等々は観て貴方の言いたい教えを守ります事の化体と思います)」と認識しております。
歴史は資源です。
歴史学の研究の為ですが欠礼の内容や見る立場の行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所(墨田区)亀沢町6代末孫。