かなり歴史のあるお堂です。
木造阿弥陀如来立像や観音像を見たかったです。
かなり、古いどひょうのちかくに念仏どうがあります決めれた日に見られる船橋市の文化財になっている仏像、あと昔の幕末の大きな戦でなくなった人たちのお墓もありますくわしくは、写真を参考にしてください。
船橋駅から徒歩15分位、念仏堂の境内には他に観音堂や大師堂もあります。
また墓地内には、戊辰戦争で戦死した福岡藩士らの墓があります。
それぞれ掲示板が設置されていますので下記に記します。
木造阿弥陀如来立像市指定文化財 この念仏堂の開基は不明であるが、墓地に慶安4(1651)年の墓もあることから創建年代はかなり古いと考えられています。
元禄年間には江戸神田の高麗屋佐次右衛門という者が観音堂の寄進をし、また、芝増上寺住持となった祐天上人の教化によって、浄土宗の寺院の形を整えたものと思われます。
しかし、その後は信者が集まって念仏を唱える堂となって、現在に至っています。
堂内に安置されている阿弥陀如来立像は寄木造、平安時代末期前後(12世紀頃)の作であります。
端麗優美な仏像で美術的にも優れており、専門仏師の手になるものと考えられます。
縁起によればこの仏像は当地の善光寺という寺にありましたが、寺が廃絶し、一時小金の東漸寺に移されたものを、高麗屋佐次右衛門がこの堂に納めたといわれています。
墓地内には、慶応4(1868)年の戊辰戦争の際に海神で戦死した福岡藩士らの墓もあります。
船橋市教育委員会 観音堂の由来 この観音堂は、元禄十四年(一七○一)に江戸神田鍋町の富商である高麗屋佐次右衛門が建立したものである。
堂内には、同じく佐次右衛門が奉納した三十三躰の観音像が安置されている。
これは佐次右衛門が前年の元禄十三年(一七○○)九月に死去した父の他、数人の菩提を弔うために寄進したものである。
中央の一躰は厨子に収められてやや大きく、あとの三十二躰は小像で左右に二段に並んでいる。
この群像は「三十三観音」ではなく、西国三十三番札所の観音像を彫ったものとされている。
今では毎年八月十日に開帳し、供養をしている。
なお伝説では、この高麗屋は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、加藤清正に連行された者の子孫だという。
奉納者・高麗屋と海神念仏堂との結びつきは、次のようにいわれている。
「元禄年間、新開の行徳道の傍らにある念仏堂に、念仏に明け暮れる了故房という修行者がいた。
その念仏はすばらしく、往来の人が感涙をもよおすほどであった。
ある日、ここを通った高麗屋も念仏を聞いて感激のあまり、宗派まで変えて了故房に帰依し、本堂を改築寄進し、さらに観音堂を建立寄進して、先祖代々の位牌まで納めて信心した。
」 海神念仏堂福岡藩小室彌四郎と従卒の墳墓 戊辰戦争はこの海神でも行われました。
それは慶応四年(一八六八年・戊辰の年)閏四月三日午後二時のことでした。
行徳街道を進軍してきた新政府軍・福岡藩兵と中山法華経寺から大神宮に向かっていた旧幕府軍との間で、激しい銃撃戦が始まりました。
暫くして、ここから南へ少し行った水田の中で、福岡藩の小室彌四郎と旧幕府軍の江原鋳三郎の格闘が行われました。
小室は江原を組み伏せ今にも斬ろうとしたとき、江原の部下の古川善助と他二名が駆けつけ、逆に小室は斬殺されてしまいました。
隊長の矢野安太夫は小室の死を悼み、ここに葬り小碑を建てましたが、千葉県は殉国の志を哀れみ、明治十九年三月にこの墓碑を建立しました。
隣は従卒三名の墓碑です。
現在海神念仏堂では毎年八月十日に殉国者の供養を行っています。
海神念仏堂。
名前 |
海神念佛堂 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
3.8 |
お寺や寺院でもなく住職は居ませんが、かなり歴史のあるお堂です。
かなり歴史も上がる、墓参り以外でも立ち寄りたいところです。