去年の台風で気が倒れた為登れません!
完ぺきな「私有地」のようです。
お寺と県立東金高校の間に登り口がありましたが、「探訪の士、志す者以外はお断り」の私有地の石柱があり、木製の門扉が閉ざされています。
お寺さんにお願いすれば当方は、「探訪の志士」なので開けてくれそうですが、お墓の横を通らないと登れそうになく、あきらめました。
確かに地元の観光駐車場にあったウキウキ観光マップには「東金城」の記載も地図にはありませんでした。
場所からすると、典型的な「山城」のようです。
標高は43mとあり西側に向かうと、確かに切通の山肌があり、ここからは西側の大網白里市にある「大網城址」までは平地となっていいることがわかりますね。
戦国時代の山城のあとなので、全国各地も同様に「観光地」と程遠い、場所にありますが、山城の由来などは分かっていても公開して広報をするつもりはないようです。
唯一のお城の歴史を表記した案内板があったので写真にしました。
近くの公園には、徳川家が「鷹狩り」に来ていたとの記載があり、戦国時代の終わりを告げた、太平の世がいかに長かったかを感じさせる場所です。
これだけはっきりした由来が分かっていたら、私有地を借り上げて東金市で管理して観光ポイントにしても良いと思います。
ほとんど海抜0mの九十九里平野で、たとえ海抜4~50mでも、これらの場所は津波にも襲われることもなく、敵の動向一目瞭然だったので戦国時代の貴重な場所だったのでしょう。
館山市の「館山城」の南総里見八犬伝以来、鎧兜を着用して、常にとなりの村の様子を虎視眈々とうかがう、戦国時代の日本人同士の「縄張り争い」のなんと、のんびりとしていたことか・・・500年を経て令和になってつくづく実感しています。
数年前の大型台風で登城路は荒れ果て、現在は入口が封鎖されています。
個人の所有地なので整備もされないままです。
このまま藪山となってしまいそうです。
山は荒れてました。
また別の機会に。
ときがね城…私有地になります。
入口はかなりわかりづらいです。
蛇に気をつけて探索…台風の影響で入れないかもしれません。
整備をお願いします!東金市役所様へ。
市街地が眺められると楽しみにしていたが、19年の台風で木が倒れ、立ち入りできないとのことだった。
去年の台風で気が倒れた為登れません!
東金が一望出来ます。
海も見えます。
恋人たちの聖地の様な所です!
本漸寺と東金高校の間の道を入る。
碑を読みながら登る。
祠、鳥の声。
左へ行くと広場になり、東金市街を見下ろせる。
右を登ると、木に包まれているがベンチなどあり、登り切った満足感を得られる。
木の間に九十九里から、房総の山の端が見える。
後ろを見ると、少し凹んだ先に、杣道か獣道がある。
季節にもよるが、踏み跡を迷わないように辿ると、行き止まりの感じになり、左下に何やら存在感のある草の塊があり、降りてみるとコンクリートの建造物。
山側に入り口。
下側にスリット。
トーチカと言われていたのがわかる。
このうしろを少し上がった所に用途は不明だがコンクリートで作った凹みがある。
鳥の声など聞きながら、70何年か前を思っていただきたい。
名前 |
東金城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.4 |
東西約七〇〇m、南北約五〇〇mの規模をもつ、半独立丘稜の山城。
東金酒井氏の本城として、天正一八年(一五九〇)まで機能していたことが確実である(「関八州諸城之覚書」『毛利家文書」、「豊臣秀吉朱印状」『難波 創業録所収文書』)。
本城の初見は、「鎌倉大草紙」によると、享徳の乱(一四五四~ハニ)の初期、美濃より下向した東常縁の家臣浜春利が拠ったとされることである。
昭和六三年(一九八八) に行われた発掘では、一五世紀末~一六世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の擂鉢の断片が出土している。
標高七四mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二郭を配する。
比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。
また、西端の尾根に大堀切・ 竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入 を防いでいる。
遺構もよく残り、本城に関する一級史料もあることから、東金市の歴史を語るうえで、貴重な文化財であると言える。
【現地案内板より抜粋】今回は看板のみの見学。