雪舟作庭です。
山口盆地北東の周慶寺山の北西山麓にあり、浄土宗寺院、山号は導衆山、御本尊は阿弥陀如来です。
ここには大内氏重臣の内藤興盛(1494~1554)の菩提寺西方寺がありました。
慶長九年(1604年)に毛利輝元の側室を西方寺に葬って後、寛文元年(1664)に萩の周慶寺が移されましたが、明治初年(1868年)に廃寺され、その後に廃周慶寺の建物境内など全てを譲り受けて、今市町にあった善生寺が現在地に移転されました。
平成十六年(2004)十二月まで建っていた旧本堂は元文五年(1740)毛利宗広によって再建されたもので、昭和六年(1931)に南西隅の改築が行われ、本堂の変遷とともに池泉が縮小整備され、大正七年、書院の増築をした時に池泉の東部分が大きく埋められ、現在のような不整形の池泉となったとの事。
本堂・庫裏の南庭(現在の様式は池泉観賞式庭園)の面積は約1,500㎡。
旧本堂が解体され、現在は北側から庭のほぼ全景を見ることが出来ます。
周慶寺山と称される裏山は、もともと飯ノ山或は飯の岡と呼ばれていた。
また飯ノ山を京都の東山に見立て、椹野川を鴨川に見立てて、東山の麓に寺が配されたという。
庭園の南西部に渓谷風の組石があり、ゆったりとした枯流れを形成している。
その左右には、築山が設えられ、とくに左側の築山には、高さ約120cmの大ぶりな山形の石材を主体に七石が配置され、庭園主要部を形成している。
右側はやや低い位置に石組が組まれている。
また東部隅に四つの景石が据わるが、南奥の一石を除き東から三石は根が浅く、南西部や中央部の組み石ともやや手法が異なることから、後世に据えられたと考えられる。
池泉の護岸寄りには巨石がいくつか配され、汀に強弱をもたせている。
東側の池尻(いけじり)に架かる自然板石は、懸石(かけいし)と呼ばれるこの地方独特の手法で、江戸時代初期以降に据えられたものと考えられる。
池泉の中央部には、井泉石組(せいせんいしぐみ)があり、湧水で常時池泉に水を湛えている。
池泉にはコウホネ、及びスイレンが全面に根をはり、四季を通じて趣を醸し出している。
周慶寺山の山裾を背景に、作庭当初の余波(なごり)をみせる静寂で優美な庭である。
発掘調査によって導水路や排水路などの遺構とともに、土師器(はじき)などの遺物が出土。
これらにより、15世紀末頃に自然沼地を利用して作庭され、当初は、導水路側(東側)から鴻ノ峰を借景(しゃっけい)として観賞したと考えられる。
17世紀末頃には、中島が作られた。
発掘調査によって作庭時期や変遷などの全容が確認された貴重なもので、県内では、数少ない中世庭園の一つであり、資料的価値はきわめて高い。
江戸時代の史料「防長風土注進案(ぼうちょうふどちゅうしんあん)」には画聖雪舟作庭の伝承がある。
(2018/11/14)
名前 |
善生寺池泉庭園 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/sp/bunkazai/detail.asp?mid=110100 |
評価 |
3.5 |
善生寺池泉庭園。