辰ノ口の評定所前に設置された目安箱に訴状を投げ込む...
ニース(原文)ice
8代将軍・吉宗の頃に小石川療養所というのが造られたと聞いたことがあります。
幕府の薬草園があるということで小石川が選ばれたという話でしたが、残っているのは井戸だけでしたか。
小石川植物園内にはかつて貧困社のための施療所で、1722年につくられ明治維新の時に廃止されるまで続きました。
この旧養生所の井戸は現在も残っており、水質が良く、水量も豊富で大正12年(1923)の関東大震災の時には避難者の飲料水として大いに役立ったそうです。
現在は蓋がされ中を窺い知ることはできませんし、立て看板には何も書かれていないので、知らずに見ると「あれはなんだろう?」と思ってしまうようなスポットです。
多くの人を救った井戸だったのですね。
小石川植物園内にはかつて貧困社のための施療所で、1722年につくられ明治維新の時に廃止されるまで続きました。
この旧養生所の井戸は現在も残っており、水質が良く、水量も豊富で大正12年(1923)の関東大震災の時には避難者の飲料水として大いに役立ったそうです。
現在は蓋がされ中を窺い知ることはできませんし、立て看板には何も書かれていないので、知らずに見ると「あれはなんだろう?」と思ってしまうようなスポットです。
多くの人を救った井戸だったのですね。
小石川養生所の井戸の跡らしい。
赤髭先生こと小川笙船が建てた救貧の病人を無料で治療する施設。
関東大震災の際には、避難してきた人々の喉を潤わしたとか。
名前 |
旧養生所の井戸 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3814-0138 |
住所 |
|
営業時間 |
[火水木金土日] 9:00~16:30 [月] 定休日 |
関連サイト | |
評価 |
3.6 |
享保七年(1722年)一月二十一日、和田倉門外、辰ノ口の評定所前に設置された目安箱に訴状を投げ込む一人の男がいます。
八代将軍吉宗公は数ある訴状を吟味するうちに施薬院に目を見張り、御用取次・有馬氏倫にこう告げます。
「この訴状の小川笙船なるものを召し出し詳しい話を訊き、直ちに検討せよ」と吉宗公が言われたそうです。
小川家のルーツは豊臣秀吉に仕え伊予国今治(現・愛媛県)に七万石を与えられた大名でした。
関ヶ原で西軍についた為に凋落したのです。
子孫は没落し、いつの頃か町医者を稼業としています。
四ツ谷に近い麹町の長屋で町医者を営む小川笙船(しょうせん)には仕事柄、常に感じていることでした。
江戸への地方からの人口流入は増える一方です。
農家の次男三男坊の独り者が江戸で職を見つけるのは凄く簡単なこと。
江戸っ子が「宵越しの銭は持たねえっ」などと威勢の良いことを言っても、怪我病気になると仕事には出られず、看病してくれる身内も無し、薬を買う金も無し。
孤独死を迎えるものが、多くいたのです。
有馬氏倫に呼び出された笙船はこの現状を打破する為には誰でも無料で介護、医療が受けられる施薬院の必要性を解きます。
此れを聞いた吉宗公は流石の名君です。
戦乱の世では敵から領土、領地で暮し働く庶民を守るのが武士の役目でしたが、江戸の太平の世では怪我病気から庶民を守るのが武士の務めと笙船の意見に賛同します。
博学で自らも薬の調合を行う吉宗公はさっそく、南北の両町奉行・大岡忠相、中山時春を呼び出し改善策を思案させます。
五代将軍綱吉公の館林藩時代の下屋敷であった小石川御殿はこの頃、一部が薬草を栽培する幕府直轄の御薬園となっておりました。
町奉行はこの地に目を付け、御薬園を拡張、施薬院を設けて身寄りの無い庶民を救済することを計画します。
旧御薬園を管理していた芥川小野寺元風の持ち場を拡張、新たに東側も小普請組の岡田理左衛門に管理させ、東の御殿坂から西の簸川神社脇の網干坂まで、現在の小石川植物園と同等の規模(東京ドーム三個分)とし、中央に新たに道を切り開き、施薬院を設けます。
施薬院にも町奉行所から役人を派遣して入所の吟味をさせ、医師が治療に専念できる環境を整えました。
小石川御殿の地に、物々しく新御薬園の大工事が始まり、施薬院なる怪しげなものを作っていると人々は噂します。
抑、施薬院というネーミングは律令制に登場する古いもので庶民には理解出来ませをん。
開所の直前になって名称を「小石川養生所」としました。
当時、貝原益軒が著した健康指南書の「養生訓」に便乗しての命名で、庶民はやっと医療施設だと理解します。
享保七年(1722年)十二月十三日、小石川養生所は晴れて開所を迎えますが、幕府が思ったほどの入所希望者が訪れません。
江戸市中では、無料で治療などと上手いことを言って、新しい薬の人体実験材料にされるのではと恐ろしい噂が飛びます。
そこで町奉行は町名主を集めて小石川養生所の見学会と称して開催し手続きも簡素化して町名主を通さなくても入所できるようにし、御触れを出します。
幕府の努力の甲斐あって入所希望者数は徐々に増え、肝煎職(所長)の小川笙船は吉宗公に御目見え出来るほどになりますが、出世には、余り興味が無く、養生所が軌道に乗るとあっさりと辞任し息子に継がせ、以後、小川家が代々、肝煎職を努めます。
御薬園は幕末までに縮小されます。
しかしながら養生所の開所当初の収容上限40名から幕末には150名まで拡大しました。
名水と謳われた幕末の井戸(旧養生所の井戸)だけが今日も小石川植物園に残り、関東大震災の際は難民を救います。
小石川植物園の高台はお役屋敷や養生所跡で、小さいながらも薬草園もあります。
切り通し新道は消滅しておりますが、鍋割坂(病人坂)と思われる名残りです。
小川笙船は赤ひげ先生のモデルとされ、時代劇にたびたび登場する吉宗公ー大岡越前ー小石川養生所の流れを思い起こします。
また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めた為に入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っておりました。
幕末になると、蘭方医が台頭し「医学所」と「医学館」が対立し、蘭方医の権威が低下すると共に養生所の質は低下致します。
明治維新により一旦は廃止されましたが医学館の管轄に移り「貧病院」と改称して存続しましたが、新政府の漢方医廃止の方針によって間もなく閉鎖されております。
薬園と共に養生所施設は、1870年に文部省の管轄に移行されました。
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所亀沢町6代末孫。