大同2年?(807 ?)守谷市の西林寺二世寛海が京都石清水八幡宮より相馬惣代八幡宮を勧請したという。
貞観2年(860)八幡宮総本社の宇佐神宮から、京都盆地南の男山に石清水八幡宮が勧請される。
延喜2年(902)比叡山の延昌慈念僧正が守谷市高野に西林寺を創建したとされる。
康平6年(1063)源頼義が鎌倉由比郷に祀ったのが関東最古の八幡宮とされる。
文治5年(1189)相馬師常が奥州合戦に参加して武功を挙げ、頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという。
(八幡神は、守谷城内の妙見廓に安置されてた妙見菩薩と相殿し、妙見八幡社となったであろう。
)天文3年(1538)西林寺四十一世海印の代に守谷城内の妙見八幡社が守谷市高野にあった西林寺に移された。
(海禅寺境内に祀られてあったのではないか。
)元禄4年(1691)に西林寺が高野から守谷市本町に移される。
徳川将軍家菩提寺である東叡山寛永寺の末寺として繁栄したという。
江戸時代末期に妙見八幡の堂宇が破損し、本尊のみを客殿に移して安置したが、明治二十三年の火災によって焼失したという。
明治時代には神仏分離令があり、八幡神が寺院に祀ってあったと考えにくい。
『寛文朱印留』によると「八幡宮領」として「五石」の朱印地を賜っていることから、元禄期に西林寺が移転された際に、妙見八幡社より八幡神のみを寺田の地に遷座し相馬惣代八幡宮として祀って相馬野馬追の魂としたかも知れない。
客殿に安置された本尊は守谷城の妙見廓に祀られていた十一面観音像であったろうと思われる。
名前 |
相馬惣代八幡宮 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
静かな場所ですね。
駐車場が3·4台分有りますが、くさりで閉められていました。
トイレは有りません。