友人の今川家の末裔に教えてもらい訪問。
今川氏発祥の地としては、松平氏発祥地に比べて寂しい感じです。
田畑のなかにあるので目指していかないと見つけにくい場所です。
縁者の墓があるのみです。
西尾中学校サイドにありました。
足利長氏の系譜を引き継ぎ、今川荘から、今川が始まったようですね。
吉良荘から、吉良氏も同様なのですね。
こじんまりした場所ですが、尋ねられて良かったです。
こんなところに?という細い道の先にひっそりとあります。
ここがあの東海一の弓取りと言われた今川義元を生んだ今川家発祥の地と思うと感慨深いものがあります。
以前から気になっていた場所の一つに「今川氏発祥の地」があります。
西尾中学校に通っていた方でしたら学校のすぐ南側にあるのでご記憶の方もいらっしゃることでしょうが、私は鶴城中学出身でございまして、子供のころは八ッ面山を駆け巡って遊んでおりましたのでそんな場所があったなんて知る由もございませんでした。
大人になってから、この史跡近くの道路を通るたびに「今川氏発祥の地」なる立て看板(写真)が気になっておりまして、「なんで西尾にこんな看板が?」と思っていたのですが、なんとあの桶狭間の戦いで有名な今川氏がここから生まれたということらしいですね。
吉良といい、今川といい、なんとも悪役と関係の深い土地柄…。
個人的にはそういう悪役的なイメージを上手に利用して町おこしに活用できたら面白いな、と考えずにはいられません。
さて、その「今川氏発祥の地」には有り難いことに説明書きがございました(写真左側の黒い石版です)。
それによると、「承久の乱後、足利義氏が三河国の守護に任ぜられた。
義氏の嫡子長氏は、義氏が足利へ帰った跡式を継ぎ、吉良荘にちなんで吉良氏を名乗った。
吉良家は二代満氏へと伝えられた。
今川荘は長氏が少年時代に義氏から装束料として贈られた地で、長氏は次子国氏に伝えた。
国氏は荘名の今川を名字とし、今川氏の祖となった。
今川の地名は荘名の名残と伝えられる。
」とあります。
鎌倉時代のことですね。
国氏は1243年生まれ。
この少し前には親鸞が浄土真宗を伝えたり、道元が曹洞宗を伝えたりしてます。
小倉百人一首ができたのもこの頃。
承久の乱(後鳥羽上皇〔西国:朝廷〕と北条義時〔東国:鎌倉幕府〕の争い)以後では三河の国は西と東のちょうど中間地点ということで、大変重要視されていたことでしょう。
西尾生まれの「吉良家」と「今川家」は清和源氏の流れを受け継ぐ大変由緒正しい家柄というのも頷けます。
承久の乱以後、西尾は力のある武将によって守られていたんですね。
それにしても、足利、吉良、今川と、これだけのビッグネームが西尾に関係しているなんて驚きです。
つい、発祥の地の碑だけに目がいってしまいますので中央にありながら見落としがちな(失礼)お墓なのですが、今川貞世という武将の墓なのだそうです。
さて実は、説明書きのある黒い石版の裏側に今川貞世について記載があります。
せっかく今川氏発祥の地まで足を運んでもここを見落としている方は多いかもしれませんね。
だって裏側ですもん。
さてその説明によれば、「今川貞世は今川氏の祖国氏の孫にあたる範国の二男で、南北朝時代の人である。
遠江国守護職、九州探題をつとめた。
武将として功のあったほか、冷泉家歌風を伝える歌人として名をなし、また、文人としても知られた。
のち入道して了俊、徳翁とも称し九十歳を生きた。
」とあります。
武将で歌人で文人で長生きだったんですね。
西尾市で剣道が盛んなのもこうした名のある武将たちの築いた功績が後押しをしているのかもしれません。
いわゆる「武士」のふるまいやたしなみは鎌倉時代から始まったとされていますが、貞世さんにも何か一流の香りがしませんか?小笠原流作法とかやってたんでしょうか?いまの西尾でも、盛んな剣道で心や身体を鍛えるのと同時に、歌を詠んだり、お茶をたしなんだりと、幼少の頃から「人間教育」ができたら素晴らしいなぁ、と感じました。
この辺りに今川氏の館があったらしく、石碑が建っている一角が館だったかは分かりません。
館の跡は一切残っていません。
今川了俊の墓が建っていますが、当時のものではなく江戸時代の半ばに建てられた物です。
西尾市立中学校の南側ひっそり囲われた静かな場所です。
歴史をたどると奥が深い。
あの東海の巨大勢力で桶間で信長に滅ぼされた今川はここから始まった。
名前 |
今川氏発祥の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
こんなところに今川氏発祥の地があるとは白なかった!