夏場に行きました風も通って非常に素晴らしいし人も他...
さすが世界遺産、国宝納得です、いままで、いろんな、お城を見て来ましたが規模が違います、外観とお城の中、すべて素晴らしい、ずっと眺めて見ていても飽きが来ない、お城🏯です。
姫路城内を見て回って、特別公開(200円)だった化粧櫓に入って見ました。
ここだけが畳敷きで内装も普通の日本家屋みたいで、同じ姫路城内とは思えない感じです。
途中の百間櫓も天気が良い割には風が強くて涼しいを超えて若干寒い感じで、櫓上に住んでた人は冬は耐えられなかったのでは。
千姫の暮らした化粧櫓は姫路城の西の丸にあります。
10万石とも言われた千姫の化粧料で整備された櫓はとても立派です。
櫓から眺める姫路城大天守閣はとてもキレイです。
千姫の化粧料で!凄すぎ‼️
紅葉が美しい。
向かって左側の入り口から西の丸を通り、一番最後の部屋です。
播磨姫路藩初代藩主となった本多忠政(ほんだただまさ)が、嫡男・本多忠刻(ほんだただとき)と千姫のために居館となる武蔵野御殿を築き、西の丸に、千姫の自由になる建物を設けたのが化粧櫓です。
徳川家から輿入れ時に賜った化粧料で造ったことが名の由来といわれます。
国の重要文化財になっています。
徳川家康の孫娘、千姫(父は徳川秀忠、母は継室の江)は、1603(慶長8)年、徳川家と豊臣家の縁組のため、7歳で豊臣秀頼と政略結婚しました。
1615(慶長20)年、大坂夏の陣では、徳川家康の命により落城する大坂城から救出され、1616(元和2)年、七里の渡しで見初めたという本多忠刻の正室となり、桑名城へ行きました。
磨姫路藩初代藩主となった本多忠政(ほんだただまさ)が、嫡男・本多忠刻(ほんだただとき)と千姫のために居館となる武蔵野御殿を築き、西の丸に、千姫の自由になる建物を設けたのが化粧櫓です。
徳川家から輿入れ時に賜った化粧料で造ったことが名の由来といわれます。
国の重要文化財になっています。
播磨姫君と呼ばれるようなった千姫が朝夕に男山に千姫が創建した天満宮を遥拝する時に休息し、化粧を直した櫓と伝えられています。
千姫に仕えた侍女たちが居た場所が西の丸長局(百間廊下)で、実際に千姫が男山天満宮を遥拝したのは西の丸長局からです。
千姫は、日常生活は下屋敷である三の丸の武蔵野御殿で生活していました。
千姫は、長男・幸千代は3歳で夭逝、1626(寛永3)年には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と出て、姫路から江戸に移り住んでいます。
出家して天樹院と号し、江戸城内・竹橋御殿で余生を送り、鎌倉・東慶寺の伽藍の再建などにも尽力しています。
墓所は伝通院(東京都文京区小石川3丁目)との弘経寺 (茨城県常総市)にあります。
最高のお城の一つです。
千姫が輿入れする際の化粧料10万石で元和4(1618)年に建てられたものです。
西の丸長局より男山天満宮を拝んだ千姫がこの櫓を休息所としたので「化粧の間」「化粧櫓」と呼んでいたそうです。
姫路城は、現存12天守の1棟がある城です。
現存12天守の内、5城が国宝に指定されており、姫路城はその中の1つになります。
現在の兵庫県姫路市に築かれている城で、別名「白鷺城」(しらさぎじょう/はくろじょう)とも呼ばれています。
正平元(1346)年に赤松貞範(あかまつさだのり)が築城したとされています。
姫路城の天守は現存する天守の中で日本最大のものです。
城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だと言われています。
長い櫓です。
櫓そのものに明確な財源が示されている歴史ある建物。
展示もありますが、廊下や長局も大層見応えがあります。
櫓だけでも規模があって見応えがあります。
歴史上重要ではないが、物語として面白い場所です。
名前 |
化粧櫓 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
079-285-1146 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.1 |
夏場に行きました風も通って非常に素晴らしいし人も他エリアに比べると少し少なめです。