こちらでいう田中城は位置的に本丸跡の事をさすと捉え...
同心円状の構造だったのが、街の構造や地図からわかる。
街のところどころに〇〇跡という案内板がある。
こちらでいう田中城は位置的に本丸跡の事をさすと捉えるとそこは小学校である。
とりあえず校門前に碑が立つ。
今どき無関係の大人が「城好きだから」と中に入るのはさすがに躊躇いご遠慮致しました。
田中城跡は、非常に珍しい円形輪郭式の縄張。
遺構としては、土塁、水堀、空堀等で、今や城跡が学校や住宅等になっている状況。
武田、織田、徳川等とも関係した城🏯なので、それを考えて遺構を探索するのも楽しいかもしれません。
本丸跡は、現在小学校になっています。
コロナ禍で人が少なくて密にならず散歩するにはいい所でした。
本丸櫓が移設されており無料で公開してるので入ってみたらすごく風通しがよく昼寝したくなるくらい気持ちいい所でした。
徳川家康が鯛の天麩羅を食べて亡くなったって話がありますが、その鯛の天麩羅を食べたのが田中城と言う説があるそうです。
以前、静岡県藤枝市田中にあった平城『田中城』江戸時代には田中藩の藩庁が置かれていたが、現在は田中小学校。
普通に見学しようとすると、今日日不審者扱い必須な城跡w田中城の本丸には天守閣は無く、天守閣の代わりに高さ2.7mの石垣の上に、2層2階の物見櫓が建っていた。
その物見櫓は、1985年に旗本から地元住民に寄贈され、田中城下屋敷後に移設されています。
なので、田中城を見学したい場合、本丸跡を見学するのではなく、下屋敷の本丸櫓を、どうぞ。
入館料無料の資料館兼庭園になっています。
●名称:田中城●別名:亀甲城、亀井城、徳之一色城●城郭構造:輪郭式平城●天守構造:2層2階●築城主:今川氏●築城年:1537年●廃城年:1868年●遺構:石垣、水堀、移築櫓他●由来:1537年、今川氏より築城。
1570年、武田信玄により落城。
山県昌景が入城。
1572年、山県昌景に替わり、板垣信安が入城。
1575年、山県昌満が城代に。
1579年、依田信蕃が在城。
1582年、徳川勢により開城。
1601年、酒井忠利が入城。
城跡は小学校に、ここには云々と書かれた標識のみが立っているだけなので、
同心円城に堀を巡らした珍しい城。
城跡は宅地化され遺構が所々に残るのみ。
元は今川氏の築城した「徳一色城」であり、武田信玄が今川氏真から奪い取った後に田中城となった。
今川氏の城の外側に馬場信春が縄張りした馬出、三日月掘を配した土塁やお堀を巡らし、さらに徳川家康が三日月堀の外側にお堀を作ったことから全国でも珍しい丸い形をした平城となった。
その丸い形から別名「亀城」と呼ばれる。
現在本丸は西益津小学校と西益津中学校となっており、その他の武家屋敷や土塁跡もことごとく住宅地になってしまってほとんどの遺構はなくなってしまっているのが残念。
しかしその住宅街の配置自体が田中城の形をしているため歩いて回るだけで楽しむことができる。
お城の建物は小さいけど中の展示は織豊期、江戸幕末と分けられていて読み応えがあった。
特に明治維新後の旧幕臣たちの苦労の話がためになった。
また本当の見所は庭園です。
行ってよかった!
今川時代に豪族一色氏居館を拡張した低湿地帯の平城。
江戸時代の田中藩など明治まで現存しました。
円形の堀が特徴的ですけれど、本当に低地にあって今は住宅があるので現地に来るといまいちよくわかりません。
田中藩下屋敷の方に昔の地図や航空写真を見せていただくと、とてもわかりやすい円形のお城です。
戦国時代、今川家によって築かれるも武田信玄によって奪われ、その後は徳川家の城に。
環状の三重濠という独特の構造が興味深いですね。
駐車場🅿無料。
入場料無料。
只今菊花展やってます。
信玄や三英傑も泊まった事のある!家康なんかここで死にかけた!円郭型の珍しい城跡です。
他には松山の道後温泉のとこにあった城位しか思い浮かばないです。
思いっきり住宅街で、本丸跡地は小学校なんですが、なんとなく道は一定方向にのみ円を描き、用水路も円を描いとります。
これが当時の縄張の名残です。
小学校にはなかなか気合い入ったジオラマ(あくまで一般には後悔されてませんが)まであります。
ここは住宅街なので、駐車場に車を置いて、迷惑にならないよう静かに散策されてはいかがでしょうか。
名前 |
田中城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
054-645-2500 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.city.fujieda.shizuoka.jp/kyodomuse/19/1445918025035.html |
評価 |
3.7 |
11月は菊花展と夜にライトアップもして楽しいです。
料金はお気持ちで。