人がお住まいですから、家の中の見学はできません。
人がお住まいですから、家の中の見学はできません。
しかし、外から見ても、元気をもらえます。
江戸時代の国学者、塙保己一の生家として国の史跡にも指定される古民家。
地元の観光ガイドにも載っていましたのでてっきり見学ができるものと思ったら、普通に住人が住んでいました。
苗字を見る限り塙保己一の子孫の方と思われます。
現役の民家なのであればそのように但し書きが必要だと思います。
人が住んでいるようなのでじろじろ覗いたら失礼かな?と思った。
(国指定文化財)ここの裏手の塙保己一公園に車を停めて(数台駐車可)、総検校塙保己一先生の旧宅を見学しました。
国指定史跡ですが、現在も後裔の方のお住まいですので、お邪魔しない程度に外観等を写真に収めました。
保己一氏の調度品や詳しい説明等は、児玉町アスピアこだま内にある塙保己一記念館で見聞できます。
保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせた。
国学・和歌を萩原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮に学んだ。
塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。
保己一の学問の姿勢に感動した旗本の高井大隅守実員の奥方に、『栄花物語』40巻をもらい、初めて書物を所有した。
のち、雨富検校の隣人の旗本・松平織部正乗尹(まつだいらおりべのかみのりただ)が講義を受けていた萩原宗固の講義をともに聞くことになった。
乗尹は保己一に系統立てた学問をさせる必要を雨富検校に説き、はれて、萩原宗固の門人として教えを受けることとなった。
そして、宗固の勧めで漢学や神道を川島貴林(たかしげ)に、同時に律令を山岡明阿(みょうあ)(山岡浚明)に学んだ。
宝暦13年(1763年)に衆分(盲官のひとつ)になり、名を保木野一と改めた。
明和3年(1766年)、雨富検校より旅費をうけ、父と一緒に伊勢神宮に詣で、京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山などと60日ほどにわたって旅をした。
明和6年(1769年)に晩年の賀茂真淵に入門し、『六国史』などを学ぶ。
その年の10月に真淵が死去したため、教えを受けたのは、わずか半年であった。
安永4年(1775年)には衆分から勾当に進み、塙姓に改め、名も保己一(ほきいち)と改めた。
安永8年(1779年)、『群書類従』の出版を決意する。
検校の職に進むことを願い、心経百万巻を読み、天満宮に祈願する。
引用:Wikipedia
盲目の国学者の旧邸。
徒歩で探した時見つからなかったが、地元の人に連れて行ってもらった。
すごく場所が分かりづらい。
問題は壊れかけているのに修理されていないこと。
本庄市の偉人のはずなのにね。
しかも豚小屋のとなりだし、人が住んでいそうだし。
ちゃんと整備すべきだ。
古風な家 奇麗な状態で保存されています。
江戸時代の盲目の国学者塙保己一の生家です。
近くには保己一が幼少期に遊んだ神社やお寺も残っています。
趣のある家ですが、子孫の方が住んでいらっしゃるので、見学は遠目からが良いと思います。
国指定史跡とか何たら百選とかアピールばっか目立つが、その史跡を住居としている子孫の方々に対しての配慮が無い。
住んでいるなら住んでいると、どこかに書いてほしいものだ。
知らないで無許可で入った人は全員不法侵入者になってしまう。
最低でも「居住人の許可を得てから入って下さい」くらいは記載すべきだと思う。
子孫が住んでいるので勝手に入ってはいけません。
保己一さんの家。
🏠まだ、人が住んでいることにも、驚き(°_°)
外から見るだけ、中には入れません。
名前 |
塙保己一旧宅 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
塙保己一先生の旧宅が良く残っています。
現在もお住まいで布団が干してありました。
あのヘレン・ケラー女史も敬愛した保己一先生です。