羽黒城址の御城印は興禅寺で頂けます。
源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣、梶原景時の孫、梶原景親によって築かれたようです。
本能寺の変の後は廃城となっていましたが、小牧・長久手の戦いで秀吉の砦になったそうです。
行き方は羽黒駅から歩いて7分〜8分。
専用駐車場はないですが、近くにお寺があり、そこでご城印がいただけるので駐車しても良いでしょう。
羽黒城址の御城印は興禅寺で頂けます。
城址は民家の間を入った場所にあり、案内板(興禅寺の北側)を見ないと通り過ぎてしまいそうなほどです。
竹藪や木々に覆われた中に石碑があります。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する武士梶原景時のゆかりの地と云われています。
羽黒城は、1201年 源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣・梶原景時の孫、梶原景親によって築かれた城。
梶原氏代々の居城として羽黒の地を統治していたが、織田信長に仕えた梶原景久(景義)が「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死し、梶原氏の滅亡にともない廃城となった。
1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉方の砦として修復され、山内一豊、堀尾吉晴が守ったという記録が残る。
■近くに、梶原景時が創建したといわれている[興禅寺]があり、景時夫妻の供養塔や、梶原一族の 五輪塔がある。
◎御朱印はもちろんのこと、羽黒城の御城印もいただけます。
■興禅寺の敷地内に、羽黒城址の土塁跡もある。
梶原景時や景季が内部抗争で討たれ、その一族がこの地へ流れ着き、後に織田信長にも仕えたが、本能寺の際にその当代景義が討たれ、梶原一族は滅亡した。
小牧長久手の戦いに於いて、豊臣方に城跡が利用される。
現在大きな土塁が残る。
興禅寺側にも少し残ってるんです。
羽黒城跡羽黒城古墳と呼ばれる前方後円墳があった。
現在の大河ドラマ鎌倉殿の13人では、頼朝の敵だったのに石橋山で頼朝を見逃してから、頼朝に重用された梶原景時(中村獅童)が、頼朝死後失脚し、こちらに逃げてきて築いた御殿(城)です。
梶原氏は桓武天皇の流れで坂東八平氏と言われ、名門の出でした。
時は移り、景親から十七代目茂助景義は織田信長に仕え、本能寺の変で討ち死にし、その系譜は絶え、その後羽黒城は廃城となった。
城跡は廃れていたが、1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いの前哨戦である「羽黒合戦」で森長可・池田恒興ら豊臣方と松平家忠・酒井忠次ら徳川方が戦い、羽黒は戦火に巻き込まれて、辺り一帯が焦土と化した。
羽黒城防衛に当たった山内一豊の母が、尾張梶原氏出身だそうで、山之内一豊が以後修復したが再び廃城となった。
☆前方後円墳、梶原景時、小牧長久手の戦い、山内一豊☆
羽黒城は1200年頃に梶原景親が築いたのが始まりと言われており、織田信長に仕えた梶原景義の代までの約380年間、梶原一族の居城となってました。
しかし、本能寺の変で、梶原景義は殉死し、跡継ぎのいない梶原家は断絶することになり羽黒城は荒廃していきました。
小牧・長久手の戦いでは羽黒が前哨戦となり一帯は焼け野原となったが、羽柴秀吉によって砦として改修し、山内一豊らが守備にあたった。
しかし、戦いの跡は廃城となり、現在の竹林となっております。
遺構は近くの神社に羽黒城の土塁が残ってます。
看板が立ててあるのでわかりやすいです。
駐車場・トイレはありませんが、近くにするすみふれあい広場の駐車場があります👍
ずいぶん前ですが、大河ドラマ「功名が辻」のゆかりの地巡りで行きました。
住宅街に、城跡の遺構がなかなかにして残っています。
堀跡、土塁などが残っているがとても荒れています。
夏は薮蚊に注意❗
2020.03.05訪問 羽黒城は梶原氏の菩提寺である興禅寺の東側一帯に築かれていた。
寺の東側、アパートの裏にある竹藪部分が城跡で、南端に土塁のような高台があり、その上に石碑が建っている。
北側は堀跡のような窪地があり、竹藪は手入れされたもので、北側の道路に面して土塁の高まりが残る。
興禅寺には梶原氏所縁の案内板が設置されている。
お寺の北東側に土塁が付いてる。
天正12年(1584年)小牧長久手合戦において羽柴秀吉方の砦として修築され、山内一豊、堀尾茂助が守将となっていた。
住宅街の中に木や竹林の一画があり、羽黒城跡となっている。
入り口には説明文と東屋が。
細い登り口を入ると土塁らしき盛り上がりが10メートル程続き、それが不規則に数本存在している。
竹林になっており、屋敷跡どころか平らな部分も少なくお城の外側部分ではなかったかと思われた。
近くにお寺もあり境内にも土塁跡があるので、縄張りが掴めなかった。
堀等が少し残っている 、これ以上壊してほしくない。
竹林が羽黒城跡。
奥に行くと土塁と石碑あり途中、倒木が道を塞いでいて、管理されていない。
惜しい。
名前 |
羽黒城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
築城年間は1201〜1204年とされています。
源頼朝に仕えた重臣、梶原景時の二男景高の子、梶原景親が築城したとされる。
梶原氏は1200年鎌倉を追われ駿河国清見関の戦いで一族の多くが討ち死した。
景親は羽黒の地に落ち延び羽黒に居を構えました。
その後、梶原氏は羽黒一帯に勢力を持ち織田信長に仕えた梶原義景の頃には羽黒3000石を領しました。
しかし天正10年1582年、本能寺の変において織田信長に殉じて梶原氏は滅亡しました。
小牧長久手の戦いにおいて秀吉は廃城となっていた羽黒城を砦として再構築しました。
守将として山内一豊、堀尾吉晴の2名が入りました。
現在は興善寺の敷地内に羽黒城の土塁が残っており羽黒城跡も土塁は残っています。
駐車場はなかったので羽黒城跡の東側、ドラッグストアの駐車場をお借りしました。
そこから歩いて5分とかからないです。
因みにドラッグストアで買い物はさせてもらいました。