城跡といっても平坦な所なのでビックリ。
織田信長が、織田家を掌握していく過程で、攻め滅ぼしたらしいです。
清須が勝者の城だとすると、弟が頼った敗者の城。
と考えると、扱いが全く違っていることが、興味深いです。
岩倉街道沿いにありますが気付きにくいです。
石碑や案内板等がありますが、あまり整備されてません。
道路の反対側にトイレがあります。
岩倉城は尾張国丹羽郡岩倉、現在の愛知県岩倉市下本町にあった日本の城で、1479年(文明11年)「織田伊勢守家」当主の織田敏広(または織田信安の代とも)によって築城されたといわれている。
標高10メートルの低い台地上に築かれた平城で、東西約104メートル、南北169メートルの規模であり、二重の堀で囲まれた城であったとされている。
現在の本丸跡には「岩倉城址」と「織田伊勢守城址」の碑がある。
織田伊勢守城址の碑は1860年(安政7年)に建てられたものである。
岩倉街道を挟んだ反対側には城跡休憩所があり、公衆トイレがある。
守護 斯波氏の元、守護代であった清州織田と双璧をなした守護代 岩倉織田の城跡です!
織田家ゆかりの岩倉城。
ありし日の面影はいずこへ。
現在は石碑が立つのみです。
(マイナー城跡あるある……)
さすが、守護代織田家の嫡流で上尾張を支配する家格のお城だけあって、案内板にあった復元図を見ると、めちゃめちゃ立派な城郭だったようです。
織田信秀や信長の弾正忠家は、下尾張を支配する清州織田家のさらにその下の三奉行のうちの1つだったとのこと。
信長は、この岩倉織田家を滅ぼした後、翌年には足利義昭を担いで上洛をはたしています。
織田信長の歴史は、内乱と裏切りと敗北と勝利の歴史ですね。
たいへんだ💦
城跡の名残はないですが看板に説明が書かれているのでめちゃいいですねヾ(≧∀≦*)ノ〃
車を停める場所がなかったです。
道路挟んだ目の前のトイレがある場所に何とか1台は停めれるかもしれませんが…
通り沿いにひっそりとあります。
城跡と言っても、石垣やら櫓がある訳ではないです。
むしろ、岩倉城跡の石碑がないと、此処が城跡だなんてわからないくらいです。
他の方の投稿にある様に城跡としての見所は有りませんが道を挟んでトイレがあるので、休憩しながら説明看板を読み、雰囲気を感じるのが良いと思います。
また、現在も発掘中の箇所があるので将来的には評価が変わる発見があることを期待します。
城跡にある案内にはかつての岩倉城の推定復元図があります。
それを見ると、かなり大規模な城だったようですね。
しかしかつて尾張の上四郡を支配したその織田伊勢守家の居城も今や昔を偲ぶものは何もありません。
「織田伊勢守城址」と彫られた石碑は江戸時代に建てられたようです。
岩倉城は永禄元年(1558)の浮野の戦いの翌年に織田信長による、二、三ヶ月に渡る包囲戦の末に明け渡され、その後破却されたそうです。
これにより信長は尾張の大部分を手中に納めることになりました。
この時、信長26歳でした。
岩倉市指定史跡岩倉城跡以下Wikipediaより文明11年(1479年)頃、「織田伊勢守家」当主の織田敏広(または織田信安の代とも)によって築城されたといわれる。
この城を拠点として「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)は尾張上四郡を支配し、尾張守護所が置かれた清洲城を拠点として尾張下四郡を支配した「織田大和守家」(清洲織田氏)に対し、武威を示して当時の尾張では清洲城と並び、重要な城であった。
弘治2年(1556年)、稲生の戦いで城主織田信安が、「織田弾正忠家」当主の織田信長の弟で末森城主織田信行(信勝)に味方したため、信長と対立した。
その後、永禄元年(1558年)、浮野の戦いで信安の跡を継いだ嫡男信賢は敗れ、翌永禄2年(1559年)3月、岩倉城に篭城するも、信長に攻撃されて岩倉城は落城した。
また一説に、岩倉落城は永禄元年(1558年)とする説もある。
標高10メートルの低い台地上に築かれた平城で、東西約104メートル、南北169メートルの規模であり、南方の小田井城と相対していた3,。
現在の本丸跡には「岩倉城址」と「織田伊勢守城址」の碑がある。
後者の碑は安政7年(1860年)に建てられたもの。
なお二重の堀で囲まれた城だったらしい。
2020.04.06訪問五条川の右岸側、前には幹線道路が通っています。
駐車場は岩倉城址前の道路反対側に公衆トイレ休憩所が有ります。
1台停めれます。
岩倉城(いわくらじょう)は、尾張国丹羽郡岩倉、現在の愛知県岩倉市下本町にあった城で岩倉市指定史跡です。
標高10メートルの低い台地上に築かれた平城で、東西約104メートル、南北169メートルの規模であり、南方の小田井城と相対していた。
現在の本丸跡には「岩倉城址」と「織田伊勢守城址」の碑がある。
後者の碑は安政7年(1860年)に建てられたもの。
二重の堀で囲まれた城でした。
ただの城跡 大した場所でもないけどなんかロマンあるよね〜愛知県や岐阜県はお城など多いからテンション上がるよね。
文明11年(1479年)頃、「織田伊勢守家」当主の織田敏広(または織田信安の代とも)によって築城されたといわれる。
この城を拠点として「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)は尾張上四郡を支配し、尾張守護所が置かれた清洲城を拠点として尾張下四郡を支配した「織田大和守家」(清洲織田氏)に対し、武威を示して当時の尾張では清洲城と並び、重要な城であった。
とウィキペディアには書かれているが、実際には城跡も無く、後から推定して戦没者鎮魂碑と共に建立・整備された塚があるのみである。
実際は地形は戦国の頃とは大きく変わり、発掘するのも困難であろうと推測される。
永禄元年(1558)の浮野合戦で当時の岩倉城主織田信広は織田大和守家の3奉行の内の勝幡・津島を拠点とした織田弾正家の織田信長に敗れ、岩倉織田氏は滅亡した。
岩倉織田氏の家老・山内盛豊も岩倉城落城のみぎり落命したと云われている。
山之内一豊「岩倉生誕説 」を採る人々はこの「岩倉城跡」から北に400メートルほどにある「神明生田神社」内に山之内一豊生誕地の碑を建立している。
また同市下本町の誓願寺には織田信広の子孫・津田新十郎の菩提寺から移設された「織田伊瀬守信広夫妻の墓」がある。
岩倉織田氏の居城。
城マニアにはいいかも✨大通りの傍らのに「岩倉城跡」の碑と簡単な歴史が書かれた看板が設置されてます。
あと、城とは関係ないですが日露戦争の慰霊碑がありました。
おそらく地元の人でも知らないスポットだと思います😊駐車場はありませんが、近くにネカフェの駐車場があるので...😒トイレは向かいになぜかあります。
ちょと不釣り合いな綺麗なトイレです。
近くには桜の名所、五条川があるのでどうせ観光するなら花見シーズンがいいと思います😊
交通量の多い道路脇に小さい祠と石碑が立っている。
駐車場が近くに見当たらず、何度も往復して、やむなくウインカーを出して路肩に一時停止。
運転手交代で写真を撮った。
そんなとこで写真を撮るのが珍しいし、迷惑だったようで、通り過ぎるドライバーに怪訝そうな顔をされこちらも嫌な印象になってしまった。
駐車場を作るほどの有名な観光施設でもないが、車で観光で来た人が停められる場所が近くにあれば良いなと感じました。
ここから少し南に進むと誓願寺というお寺があり、そこに織田伊勢守信安夫妻の墓があります。
岩倉織田氏の居城跡。
今は碑のみ。
山内一豊の父が岩倉織田氏に仕えてたので岩倉は山内一豊の生誕の地といわれる。
城跡といっても平坦な所なのでビックリ。
必ずしも小高いところにあるのではないのですね。
名前 |
岩倉城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0587-38-5819 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.3 |
道路沿いにありました。
道路を挟んだ反対側にトイレ、駐車場がありました。
近くまで行ったら徐行しながら気を付けて探さないと通過してしまいます。