戦時中に掘られた機関車用避難壕です。
岩脇蒸気機関車避難壕 / / .
米原市いをぎ町にある戦争遺産※米原市指定文化財第2次世界大戦末期に米原駅にある蒸気機関車を爆撃から守り兵員、物資輸送確保のため緊急秘密工事が進められた。
結局トンネルは完成する前に終戦を迎え工事は中止となり使われる事なく現在にいたる。
近くには資料館が開放されており、平成20年に「いをぎ町づくり委員会」の手により整備された時の貴重な写真などが展示されています。
展示される道具を見ながら、手掘りでこれを掘っていたのだと思うと大変な苦労だったのだと感じます。
戦時中、空襲から蒸気機関車を守るために米原車両基地(派出所)近くの岩脇山に手掘りで防空壕を二本掘った遺構。
うち一本は貫通しているが、機関車が入る大きさにはなっていません。
掘っている途中で終戦となり、そのままにされていたようです。
近年になり整備されたそうです。
戦時中に掘られた機関車用避難壕です。
近くに何かないか地元の人に聞いて訪問しまた。
戦争の頃の避難壕ですね。
南側は、封鎖されておりましたが、北側は問題なく入れました✋(写真は北側より撮影)今回は山の上には行きませんでしたが、登っても景色が綺麗そうです。
南側入口は閉鎖されていた、ミニ資料館あり、トイレあり北側入口から入れる。
貴重な史跡と思います。
蒸気機関車を空襲から守る防空壕があるなんて全く知らなかった。
脅しました。
それがまた、米原にあるなんて思いもしませんでした。
空襲の対象になるような場所だっけ?と思ったりもしました。
そ例外は、まぁ何もないので、是非、観光名所にしたいなら、当時の業務用の蒸気機関車のレプリカでも展示して欲しいものです。
いやーしかし、驚き、桃の木、山椒の木でした。
鉄道と戦争の遺構、地域の方がキレイにして残しておられます。
戦争遺産であり鉄道遺産130メートル程ある壕が2本あります南側は東海道本線上り線をまたぐものの旧米原機関区を正面に見る事ができるかつてこの地が鉄道運送の大動脈だった事が伺い知れる近くに小さい資料館もあります。
先の大戦中に機関車を避難させるために掘られたものだそう。
実際に使われることはなかったようです。
2つあり、片方は貫通、もう一方は行き止まり。
中には入れるようですが、入口にヘルメットが置いてあるので利用した方がいいかも。
ところで、この穴の大きさで蒸気機関車が入ったのかちょっと疑問???
2018.08.12. (日) 12:10 初訪問 (奈良斑鳩人)TVでココが紹介され 第二次世界対戦中に日本国陸軍が行った 奇抜な発想に興味をモチ 米原に出向く所用の際 立ち寄ました岩脇公民館前の細い道路(岩脇山外周路)を車で200m程 南に進むと ソレらしき場所が有りましたが駐車場が無く 路側余地に!避難壕入口は 道路から一段上がった東寄り(右)に有りました先ずはトンネルの説明を!コノ場所からも間近に見える 東海道本線と直ぐ近くの米原駅は 敦賀への北陸本線への分岐点で 戦時中の軍需物資や人の 輸送において 大変重要拠点的な場所でしたソコで軍は 1941年頃から始まった空襲から機関車を守る為に ココ岩脇山にトンネルを掘り 何と避難所を作ったワケです ビックリ!トンネルは2本有り 約50m行き止まりと 約130mの貫通ですが 怖がりなので50mのトンネルのみに入りました入口の間口は約3m 高さ約3.5mで 入口から 30m程はこのサイズで 奥の20m程は天井が1.5m程低くなっていました掘られた岩肌は ノミとハンマー彫りの跡が鮮明に残り 機械を使用せずの工事で 大変な作業だったコトが分かりましたでも 結局は工事が完成する前に終戦となり一度も使われるコトは無かった・・また今日に至る迄には ゴミ捨て場の様な状態が 長きに渡って有ったトノ事でした日本とは言わず 世界にも沢山の大戦遺産が有り ソレらに向き合えば 戦争経験の無い私ですら 悲しく辛い思いを持ちます しかしコノ場所では ソレらとは 少し違った意味の感情が有りました・・最後は ただただ平和を願うばかりデス。
内部に入れる様に木の板が敷かれていましたが雨によって水没していました。
入り口は落ちてきた土砂で少し埋まっており、本来はもっと低い位置まで掘られていたのかもしれないません。
岩脇(いおき)の地名どおり硬い岩盤によって構成された岡があり、戦時中、隧道を穿ち機関車の待避所にしようとしたとのこと。
防空壕の機関車版ということらしい。
隧道は未完成のまま終戦を迎え、遺構は打ち捨てられ、ゴミ置場となり荒れ果てていた。
平成二十年代になり、地域の共通の記憶として保存活動が展開され、整備された場所となった。
自分の住んでいる地域に対する愛が感じられるほど、よく手入れがなされている。
四畳半程度の資料館が附属している。
資料館の中に年表があり、干拓事業に米・豪の捕虜の強制労働があったことを知った。
極東の国まで連行され苦役に従事させられた捕虜の方の気持ちを察するといたたまれない。
また米原にも大阪から疎開してきた人がいたらしいことも知った。
疎開してきた人々は、疎開先の住人にやっかい者・ヨソ者扱いされ、「田舎」が大嫌いになる、という話を聞いたことがある。
この地にきた大阪の児童さんはどうだったのだろうか。
郷土史的に興味深い。
岩脇の方が非常丁寧に「手入れ」やっておられるなと感じた。
素晴らしい。
岩脇の字へ入ってみて驚いた。
伝統的な近江風の家屋が多く、新建材の家も含めてどの家も奢るところなく、簡素で簡潔なのだ。
家屋まわりや庭も清掃や手入れが見事に成されている。
家屋周辺や庭に使わなくなった荒物、家電やトタン板、農業道具が出ている家が一軒もない。
庭木や生垣も手入れされている。
どの家も庭も簡素ではあるが粗末ではなく、よく手入れがなされ清浄で清潔である。
美しい。
雑味がないのだ。
同じ日本人でありながら「自分が育った字とは民度が違う」と思わされた。
こういった字で生まれれば、随分マシな人間になったと思えた。
やや卑下が過ぎるか。
大人になって苦労して獲得した作法や習慣が、空気を吸うように身についたのではないか、そう思えた。
そういえば岩脇山の麓にある公民館、稲荷神社も非常に綺麗に手入れがなされていた。
機関車避難壕の遺構自体より、整備・保存している岩脇の字の佇まいに鮮烈な印象を持った。
やはり近江は凄いなぁ。
機関車壕は並んで2本あります。
普段は入り口は閉まっていますが、行った時はたまたま保存会の方が作業してみえて、中を見学させていただきました。
重機のない中、人力で掘って行ったとのこと。
実際に機関車壕として使われる前に戦争は終ったのですが、戦争遺産として後世に残していくべきものだと思いました。
名前 |
岩脇蒸気機関車避難壕 |
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ジャンル |
|
電話番号 |
090-9624-5804 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
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戦後は放置状態でごみ捨て場と化していたらしいですが 『いをぎ町づくり委員会』の皆さんの手で整備されたそうですぜひ 知って頂きたい戦争遺産です。