金麗社を訪れるきっかけとなった。
「維新の商人」(著者 古川薫)を開いて見た事が、金麗社を訪れるきっかけとなった。
「道の駅みとう」から西に数百メートルの所にあり、静かなたたずまいの神社。
境内は凛として、静寂観が漂い、古の風が感じられる。
維新を駆け抜けた、つわもの達の幻影が見えるようだ。
訪問した時に、近隣の小学生達が神社の清掃を行っていた姿を見れた事は嬉しかった。
金麗社は、菅原是善(菅原道真の父)、菅原道真を祀った神社だそうです。
でも近世以降「大田絵堂の戦い」で、萩政府軍に対抗する諸隊の本陣が置かれたことで有名になりました。
ここで高杉晋作や山縣有朋、伊藤博文が作戦会議をし諸隊を勝利に導いたそうです。
明治維新発祥の地と云われることに、うなずけます。
6年前に訪れました。
萩藩俗論派政権を討つため元治元年(1864年)十二月十五日、下関功山寺で挙兵した高杉晋作に従ったのは力士隊と遊撃隊合わせて百名足らずであったそうです。
しかし、雷電のごとく下関新会所(奉行所)を押さえ、更に海路で三田尻(防府市)の海軍局を制圧し、藩の軍艦3隻を捕獲しています。
この高杉の快挙に山縣狂介(有朋)も部下から命を狙われかねない身の危険を察知し、漸く重い腰を上げて、奇兵隊を美祢宰判(萩藩の行政区画)伊佐方面へ進軍させます。
その他の諸隊もこれに続きます。
藩政府軍は前軍を「太田・絵堂」に、中軍を明木村に、後軍を三隅に布陣します。
翌二年(1865年)一月六日、奇兵隊は絵堂の藩政府軍に夜襲をかけ、その他の諸隊も大嶺村や秋芳から絵堂を攻撃します。
翌七日、藩政府軍は壊走し、諸隊は絵堂を占領し、ここ金麗社に本陣を置きました。
同月十日の朝以降、藩政府軍との間で激戦が繰り返されました。
金麗社本殿裏側で、大田川の対岸から当時の藩政府軍が発砲した弾痕らしき跡を確認できました。
同月十五日、高杉晋作が約一千名の兵を率いて合流し、藩政府軍を絵堂北方まで押し返します。
諸隊の隊長を集め軍議を開き、兵達が連日連夜の戦闘で憔悴し切っているからことから、一旦、山口へ兵を引くこととなりました。
長州藩内訌戦の最大の激戦地で、その後、正義派が俗論派を駆逐する契機「太田・絵堂の戦い」となった歴史的に重要な場所だと思います。
又、庶民で編成された武装部隊が武士の正規軍に勝利するという大きな時代の流れの転換点でもあったと思います。
それはともかく、同一と思われる境内地に二つの神社が並存?している不思議さも感じました。
近くには長登銅山跡もありますので、是非、足を運んで頂きたい場所です!
名前 |
金麗社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
金運の神様と勝負運の神様ということで行きました。