真田昌幸夫人、寒松院が開基の寺院。
お墓参りに行くのですがいつ行ってもとても綺麗に整備されていて気持ちのいい場所です。
歴史ある建物に、感動を覚えます。
曹洞宗天照山大輪寺真田昌幸の夫人寒松院(山之手殿)が開基となったと伝えられているまた、山本鼎の墓や加舍家の墓地がある寒松院は、初代上田城主真田昌幸の夫人長男信幸(信之)次男信繁(幸村)の生母生前は山之手殿や京御前と呼ばれていた大輪寺の寺伝によると寺は砥石城(旧神科村)の東麓の畑山にあり昌幸が上田築城の時、夫人によって現在地に再建された寺と伝わる大輪寺境内東方墓地に葬られた寒松院の墓は夫人は天正十年(1582)武田氏滅亡の前は人質として甲斐の新府城また慶長五年(1600)の関ケ原合戦の際も人質として大阪城に居ましたが豊臣方に組みすることにした昌幸の知らせを聞きひそかに大阪城を脱出して上田城へ戻る昌幸が慶長十六年(1611)世を去った2年後の慶長十八年に亡くなりそれからは寒松院と呼ばれた夫人の出身には諸説あるが「高野山蓮華定院」過去帳には「京の公家の娘で武田信玄の養女として昌幸に嫁ぐ」と記されている京御前様と呼ばれたのをみても当を得ていると考えられるまた天正七年ごろと推定される検地帳には「京御前様御料所」として真田町木原地区一帯に多くの土地も所有していた。
墓参りなので、感想もなにも…最近は、寒松院(真田昌幸の正室)のお墓にも参っています。
9年前53歳で亡くなった友だちのお墓参りしてきました(合掌)由緒ある立派なお寺で安らかに。
GWにお墓参りをしたらウグイスが鳴いていました。
お庭が素敵。
寒松院のお墓あり。
墓地にある蓮の池が良い感じ。
場所が分かり難いし、道路が狭いため気を付けるべし。
真田昌幸の正室、山手殿「寒松院」の墓所があります。
至るところに六文銭。
山側の墓地は夏はスズメバチやマムシに怯えながらお墓参りします。
仕事でたまたま通りかかりました。
わざわざ中まで案内して頂きましたありがとございました。
お参りさせていただきました。
座禅の日もあると言うことでしたので今度ぜひ参加させていただきたいと思います。
とても素敵なお寺さんでした。
只管打坐。
母方のお墓のあるお寺、彼らが誇りとする旧家のお墓は寒松院のすぐ隣。
真田昌幸夫人、寒松院が開基の寺院。
寒松院墓所。
名前 |
大輪寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0268-22-0575 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.city.ueda.nagano.jp/kankojoho/shisetsu/sanada/007.html |
評価 |
4.2 |
上田城の鬼門に当たる北東方向には、これでもかというくらいに多くの寺院や神社があります。
曹洞宗の寺院、天照山大輪寺もそのひとつです。
しかも、本堂の大棟に掲げられている寺紋は「六文銭」。
つまり真田家の菩提寺のひとつだということです。
築城にさいして移設された寺社は合計で4つ――海善寺、呈蓮寺、八幡宮、大輪寺――になります。
なぜ、このようなくどい寺社配置にしたのでしょうか。
その理由は、築城にさいして大輪寺がもともと位置していた砥石城の東麓から、真田昌幸の妻「山の手殿」の願いにもとづいて現在地に移設された事態のうちにありそうです。
というのは、上田城から見て真田家の本拠「真田の里」(旧真田町)は北東方向、つまり鬼門の位置にあるからです。
砥石城は、千曲川河畔から神川に沿って北上する道筋において、真田の里を守る前門の位置にありました。
そうなると、太郎山ならびに東太郎山の尾根で縁取られた上田城から北東部は、矢出沢川と神川の扇状地斜面となるわけですが、山麓斜面と河岸段丘でつくられた――小諸方面から攻めくる敵に対抗する――軍事的防衛線は、真田の里、砥石城とその出城、上田城を結んだ線と重なるわけです。
つまり、城の鬼門方面に分厚い防衛戦線を構築できるようにしておかなければならないということになります。
寺社の境内や堂宇が兵配備地や兵站拠点となることは言うまでもありません。