名前 |
天正寺城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
三木合戦の際、羽柴秀吉は三木城を兵糧攻めにするため、廻りに30余りの付城を築いた。
特に毛利の援軍が明石から兵糧を運び込めないように三木城の南側は複数の付城と多重土塁を廻らせて固めた。
もうひとつの三木城への兵糧の運び込みルートである丹上山城と淡河弾正忠定範の居城 淡河城を落とす必要があった。
天正7年5月、先ず丹上山城を奇襲にて攻め落とした秀吉は、次の目標 淡河城の廻りに付城を築いた。
淡河城の北に、この天正寺城。
東側は東付城、南は南付城、西に西付城を築いて、別所方の淡河城を取り囲んだ。
そして、秀吉の弟 羽柴秀長が率いる秀吉軍は、淡河城を攻撃したが、攻め落とせず、逆に敗走することになる。
それほど淡河定範は智勇にすぐれた武将であったと云える。
その後、定範は自ら淡河城を焼き払い、三木城に入り、別所長治と運命を共にする。
現在、天正寺跡には、遺構は確認できません。
案内板の設置も皆無です。
対して、皮肉なことに、淡河城跡には、土塁や空掘等の遺構、案内板や模擬櫓がありますが。