道の駅の裏手から歩いて直ぐに登れます。
約20年ぶりくらいに城跡まで登らせていただきました。
たしか当時は 車で山頂まで登れたと思いましたが 現在は封鎖されているため 徒歩での登りしかできなくなっております。
素晴らしく眺めの良い頂上部ですので ぜひハイキング替わりに御登りください。
亀山城は、応永31年(1424年)に奥平貞俊によって築城された。
貞俊は、天授年間(1375年~1380年)に現在の群馬県からこの地に移り住んで川尻城を築いた後、亀山城を築城してここに居城したとされている。
その子孫は、この地で支配者としての地位を確立し、後に山家三方衆と呼ばれる有力土豪となった。
16世紀になると、今川氏、松平氏、織田氏といった武将の配下を転々としながら、天正3年(1575年)に徳川方となって長篠城の城主となった奥平貞(信)昌の長篠の戦いでの功績により、奥平氏は歴史に名を残すこととなった。
存続期間については、応永年間から城主が長篠城へ変わる天正年間の時期と慶長7年(1602年)~15年(1610)年に奥平信昌の四男 松平忠明が城主となっている2時期が知られている。
歴史を調べると 長篠の戦の鳥居強右衛門さんに関わっていると思うと歴史のロマンにワクワクします。
土塁がはっきりとしておりました。
見渡しもよく、道の駅に車を停めてからのちょっとしたハイキングに良いです。
歴史が好きなご家族が楽しめると思います。
古宮城の続100名城のスタンプを押しに作手歴史民族資料館を訪れた際に受付の方に教えてちただき訪問しました。
道の駅つくで手作り村に隣接しており、無料の駐車場から歩いてすぐなので車で手軽に訪問できます。
1424年に奥平貞俊が川尻城から移り五代に渡って居城としました。
奥平信昌が新城に移ったのち1602年に信昌の4男の松平忠明が作手藩1万7千石の藩主として8年間入城し、その後は三河代官として小川氏が数年間居城としたのち廃城となりました。
駐車場からは西曲輪、土橋、本丸、二の丸の順に歩いていけます。
本丸までは歩道がコンクリートで整備されていました。
とてもシンプルな作りですが、土塁や曲輪、堀などの遺構がよく整備されしっかりと確認できました。
道の駅の裏手から歩いて直ぐに登れます。
それほど大規模な城域ではないですが、空堀や郭などリアルに地形が残っていますのて初めての方にも分かりやすいです。
本丸からは眺めも良いです。
奥平氏の城。
道の駅から行けるらしいですが東側に駐車場もあるのでそちらからでも行けます。
そっちの方が本丸には近いかも。
広くて土塁や堀切も残っていて城跡好きな人は楽しめると思います。
奥平氏の居城。
亀山城主奥平信昌が近くの古宮城の武田氏の軍を撃破した功績により、織田信長から長篠城の守りを命じられた。
のちの長篠の戦いに続く。
5月には近くの道の駅とここで、お城祭りが行われる。
近くの道の駅で車をとめて、お城への登城口は道の駅のすぐ近くにある。
草が伸び放題で遺構を残そうとしてる感じはあまり感じなかった。
駐車場は 、Googlemapだと西側を案内されるが東側にあります。
西側から城攻めすると、結構な険しい道になるが、南側の『道の駅、第2駐車場(無料)』に車を止めて登った方が良いです。
長篠設樂原の戦いの際、長篠城の城主を務めていた奥平氏の居城だった城。
戦国期、一時は武田に属すものの後に徳川方に寝返り。
武田の猛攻を受けるもよく凌ぎ、その働きが認められ長篠城城主に抜擢されたようです。
武田方の奥三河の拠点である古宮城との距離は僅か1㎞程度。
その状況で寝返ったのは、余程の覚悟や自信があったものと思います。
奥平氏が転封されたことで廃城。
後に松平氏がこの地に入った際に復旧されましたが、松平氏も伊勢亀山城に転封となって廃城します。
本丸へ入る虎口付近に石垣が、後は曲輪と周囲に土塁と堀が幾らかあるぐらいです。
麓には道の駅があり、そこの第二駐車場から城への登り口があります。
道の駅つくで手作り村に立ち寄った際に、城址があるのを見つけたので行ってきました。
亀山城は中世の城郭ということで、近世の城郭のようなもの(天守や櫓、大規模な石垣など)を期待して行くとがっかりするかも知れませんね。
名前 |
亀山城址 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0536-22-0673 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,22240,149,722,html |
評価 |
3.8 |
2023年5月14日作手古城まつりが毎年開催されます。