最初は武田信玄が築城したそうです。
達成感があります。
この辺りにお城があったのね。
(2021.12.24)
本殿まではかなりの体力使いますが、登ってみると感動ものでした。
静岡平野に独立し、駿河湾に面した標高307メートルの日本平山中の一角、駿河湾に臨む標高210メートルの支尾根に立地する。
古代から久能寺が開かれた場所であった。
山城としては、駿府市街や平野部が全く見えず、眼下に駿河湾を見下ろす場所であることから、もっぱら海上を監視するための城塞であったと考えられている。
知人達の案内で聖地の久能山城に私達も同行させてもらいましたこの、お城は天下の武田信玄公が築いた大変堅固な山城です。
あと信玄公の事を自ら師と呼び親のように慕い生涯尊敬していた徳川家康公が我の亡骸は久能山城に埋葬しろと言ったらしいです信玄マニアの家康らしい話しですねそれと、久能山城は大変、景色も良くて歴史を感じさせてくれる大変美しい場所でしたまた来たいです当代記の記録によれば駿河を侵略して海を手に入れた信玄公は今川氏配下にあった駿河水軍を接収して武田水軍に再編し北畠家の伊勢水軍も編入させ、巨大な安宅船1艘を核とする52艘の大変規模のでかい艦隊を作り上げたこの水軍は武田海賊衆や武田水軍と呼ばれたある時に信玄が紀州の根来衆や雑賀衆、本願寺などから大量の鉄砲を購入し安宅船に載せて海路で運搬していた時に駿河湾で徳川方が小船を多数出し拿捕しようとしたら武田水軍は大船な上、鉄砲を大量に持っていて徳川方は無惨に撃退されたらしいこの史実は徳川家の当代記に記されているこのように久能山城近くの駿河湾でも百戦錬磨な武田軍が徳川と海戦をしたらしく久能山城及び駿河は武田軍の重要な拠点だったのが分かるあと鉄砲の話しですが信玄は鉄砲に大変関心があり火縄銃が種子島に伝わってから10年後には既に導入していた当初は商人を通して東海道から仕入れていたが海を手に入れてからは紀州まで出向き直接仕入れていたらしいしかも鉛(弾薬)は紀州から彦五郎と言う名の商人を呼び甲府で生産したらしい武田家は、この時には既に東国一の鉄砲保有数だったらしい、この事からも分かる通り武田軍は鉄砲奉行衆もあったらしく騎馬隊もそうだか武田の鉄砲隊も有名だったそれと久能山城関連の伝記によれば甲府を発した5万余りの軍勢を率いた信玄公の本体が駿河衆や駿河奉行、国衆、豪族、山家三方衆など他にも沢山いるが錚々たる顔ぶれの家来を久能山城に呼び付け盛大な宴会を開いたそうな信玄公は日々、久能山城で天下取りのシナリオを描いていたらしい当時でも間違いなく長生きしていたら確実に天下を取れたのは信玄公と上杉謙信公だけと全国で言われていたらしいです。
最初は武田信玄が築城したそうです。
城跡としては..改変されすぎてて遺構がわかりにくい..っってゆうか入れないトコが多い(;^_^Aまあ、家康様のお墓参りで神聖な気分になれる..カモ
名前 |
久能城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
054-221-1066 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
武田三堅城の一つで、その跡地を利用して久能山東照宮を建てたもの。
遺構は分かりにくい。