登り口はわかりにくいですが、堀が良く残っています。
初孫の宮参りでした。
由緒有る神社での3代に渡る宮参り❗有り難い限りです・・・
春日神社のスグ横にある。
登城口も鳥居からちょっと横にあった。
ナカナカの急坂を登ると土塁に堀跡♪(^^ゞ7月は草もソコソコ生えてるケド、遺構は見れたよん(◠‿◕)元亀元年(1573)に織田家臣、あの柴田勝家が築城したとのコト((◎д◎))ゝ主郭東側は重ね馬出なのだ♪(☆▽☆)
登り口はわかりにくいですが、堀が良く残っています。
井元城は、愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭。
文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出。
発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。
城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。
東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。
この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。
虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯地と考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられない遺構で、鯰江城攻略の為の中核砦では。
城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分。
虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているの。
重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したもの。
歴 史井元城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられている。
なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城させられている。
陣城的な遺構が残ってます。
名前 |
井元城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
本殿を正面に見て左手に少し進むと林の中に入って行く人の踏み跡道があります曲輪はきれいに草刈りされていました土塁、堀確認できます。