帰省すると毎回参拝させて頂いております。
帰省すると毎回参拝させて頂いております。
小牧・長久手の戦いは、武田戦術を取り入れさらに白兵戦に強くなった家康が勝利を決定付けた戦いでしたね。
この時に限って黒田官兵衛は関西方面に居て秀吉の側に居なかったそうです。
もし側に居たら池田・堀・森・秀次の「中入り」などさせ無かったのでは?結果的には、後の秀吉の外交戦術・人たらし戦術で秀吉が優位に立ちましたが。
歴史関係の書物を読んでみますと、秀次の本陣は今の、本地丘小学校の場所にあったと書かれていました。
この地域一帯に秀次が率いる補給部隊の小荷駄隊8000の兵が野営し早暁油断している時に、榊原康政の軍などに奇襲を掛けられ激戦になりろくな抵抗も出来ず秀次を逃がす為に必死に戦った秀吉の親戚に当たる木下家の方々が次々討ち死にする事になりました。
膠着状態になってしまった小牧・長久手の戦いを、終わらせたのが、天正大地震だったと言うのも皮肉な話です。
後に、真の天下分け目の戦は、「関ヶ原の戦い」では無く「小牧長久手の戦い」であったと称されています。
どこまでも強運の持ち主であった徳川家康の天下人への道を決定付けた戦いであったと言えるのでは無いでしょうか。
秀吉と家康が戦った小牧長久手の合戦の局地戦の場所であるが、今となってはこのあたりとしか言いようがない白山神社も今はなく、これまたこのあたりでである残っているのはこのあたりで見つかった白山神社跡の石碑だけである現在この石碑は本地ヶ原神社の入り口にあるとなりの石碑は第二次大戦中にあった旧陸軍飛行場跡地の印であるおねがいですから石碑のまえをごみの集積所にしないでください。
神社の近くにもしくはその周辺で戦国時代での戦があるのは知らなかった。
教科書に載ってないので知る人ぞ知るってことかな。
徳川だの豊臣だの有名なのにこの戦いはあまりにも知られてないのが意外。
「小牧・長久手の戦い」の史跡巡り🚶1584年4月9日早朝4時半頃、この辺り白山林一帯で羽柴軍「三河中入部隊」4陣三好秀次/兵8000が休憩、徳川軍/大須賀康高・榊原康政・丹羽氏次ら兵5000に襲撃され約1時間余りで壊滅した場所🐎この場所を認知❗️この頃、羽柴軍1陣池田恒興/兵6000は既に岩崎城・六坊山周辺まで進軍交戦、ここから岩崎城まで直線距離で10㎞位でしょうか、何でこんなに間延びしたのでしょうか、それに何で岡崎までまだまだなのに、ここで朝飯食べたの⁉️池田隊が2~3時間岩崎城と交戦してたら前に追い付くでしょ、普通、不思議だ😰前の3陣堀秀政隊も長久手着陣、遠いよ何か4陣三好秀次隊だけ逆孤立🥺何でだろう~三河岡崎まで猪突猛進のはずが、朝ごはん、歴史は不思議だ😅
家康の本拠である岡崎を攻撃するための豊臣秀次の奇襲部隊が、逆に奇襲を受けて壊滅した間抜けな現場。
行動を秘匿するため秀次隊は夜間行軍していたのだが、それを察知した徳川側の榊原隊が夜10時頃から追尾を始め、朝になって一休み中の秀次隊に襲いかかった次第。
闇討ちをしようとして、闇討ちにあったでござるの巻。
頼山陽の『日本外史』に、「公 (神君家康) の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」と、「小牧・長久手の戦い」こそが、徳川家康の天下人へ押し上げた原動力になったことを述べている。
つまり徳川家康は豊臣秀吉に戦で負けなかった。
逆に言えば豊臣秀吉は徳川家康に戦で勝てなかった。
だから朝廷から征夷大将軍の任に在らずとされたと言われている。
昔は林だったのでしょうが、閑静な住宅街で隣は小学校です。
綺麗な神社に説明板があります。
今からは想像できませんが、昔は累々とご遺体が並んでいたのでしょう。
名前 |
白山林古戦場跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.0 |
長久手古戦場の資料で初めて知りました。
長久手古戦場と同等ぐらいの重要な戦いと感じたが、まったく知られていないね。
調べて行っても見逃してしまうぐらいです。