平安時代末期から南北朝時代にかけての平城。
平安時代末期に下妻氏によって築城し鎌倉時代には小山氏が居城にていました常陸合戦の際に興良親王(護良親王の第一王子)が春日顕国に奉じられて入城し、関東における南朝の重要拠点になりました。
1343年に大宝城は関城とともに落城したといわれています。
1232年に下妻長政が築いた平城。
南北朝時代、南朝方の拠点であったため北朝方から攻撃にあい落城したとのこと。
国の史跡に指定されていることからかなり歴史的価値が高いのだろうと思います。
大宝八幡宮の本殿裏側に碑がありました。
見渡すとここは高台になっており、城としての面影を受けます。
土塁や空堀が残っているみたいで、見る人が見ればその様子がわかるようです。
所々に お城の面影が残っています。
南北に長い大地に造られていたようで東西に降りると、城跡との高低差を感じます。
南北に土塁が残っているくらいで余り遺構は残っていないので、周囲を巡って縄張りを確認しました。
茨城県県西地区はぜひ。
南北朝の動乱期に関東での南朝の拠点となった城です。
現在は大宝八幡宮となっています。
自宅 近し。 👍️
この城も南北朝動乱の舞台となった場所です👆小田城、関城と共に北畠親房、春日顕国らが、北朝方と戦った城跡で、大手の土塁や、搦手の土塁等がよく保存されています👆国指定の城跡です☺
名前 |
大宝城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
【当史跡】(ダイホウジョウセキ)は、現在の茨城県筑西市・下妻市大宝に所在した、平安時代末期から南北朝時代にかけての平城。
昭和9(1934)年5月1日、「大宝城跡」として国史跡に指定された。
茨城百景にも選定されている。
【沿革】は、寛喜4・貞永元(1232)年に下妻長政が築いた城である。
興国2・暦応4(1341)年に、春日顕国が興良親王を奉じて大宝城に入城した。
平安時代末期には下妻氏が居城し、鎌倉時代初期には小山氏が居城したといわれる。
南北朝時代には、下野の小山氏一族の下妻氏が在城していたという。
近隣にあった関城とともに南朝方の拠点であったが、北朝方の標的となり、いわゆる「関城・大宝城の戦い」という攻防戦が発生したことで知られる。
【所在地】は、茨城県下妻市大宝667(〒304-0022)。
城域は、大宝八幡宮の境内地より広かったと思われる。
【文化庁】は、「東西北ノ三面断崖元大寶沼タリシ水面ニ臨メル要害ノ地ニアリ世々下妻氏ノ居城タリ興國二年十一月春日中將顯時興良親王ヲ奉シ小田城ヨリコヽニ移リ関城ト相呼應シテ賊軍ニ對抗シ城陷ルニ及ヒ城主下妻政泰節ニ死シ以後廢城ナレリ 南ヲ大手トシ北ヲ本丸トス南方ニ土壘猶ホ存シ壕ハ今埋メラレテ縣道トナレリ北方又殘壘壕阯ヲ存ス舊ノ本丸阯トスル地点ニ縣社八幡宮ノ祠宇アリ ソノ宮寺阯土壘及井戸阯等ヲ存シ舊規ノ見ルヘキモノアリ 大寶沼ハ大寶関兩城城壕ニ擬セラレタルモノニシテ防禦上重要ノ使命ヲ有セシモノナリ 明治大正ノ間ニ亘リ排水耕地整理シ今水田タルモ尚舊形ヲ存ス」と説明した。
【多賀谷城跡】公園を訪れて、史跡説明板の図面を見ると、この中に大宝城が記載されている。
多賀谷氏が勢威を誇った頃は、大宝城は多賀谷城の出城となっていて、北方の脅威である結城氏や水谷氏への前衛基地であったものと思われる。
【謎】その1は、大宝城と大宝八幡宮の区域が重なるのは、どうしてだろうか?。
前者は寛喜4・貞永元(1232)年に下妻長政が築いた城で、後者は藤原時忠公によって大宝元(701)年に創建された、関東地方で最古の八幡宮であるので、神社としての年数が永い。
古い神社は、鎮守の森を持つ傾向があるので、社殿は現在地より前方(大宝小学校)にあったのかもしれない?。
【謎】その2は、大宝城跡の指定区域が北方の「関城跡」の舌状台地の麓まで及んでいるのは、何故か?。
現時点で言えるのは、両城跡が南北朝時代に高師冬の攻勢に北畠親房等が逃れて来て、さらなる攻撃で両城とも落城したという関係性から両城を1件と見なしていることからと推測するぐらいである。
【接道】は、県道谷和原筑西(357号)線から分岐する県道大宝停車場(335号)線を北上して、信号機の先に鳥居が見えたら、さらに直進して二つ目の鳥居を通り抜けると、大宝八幡宮の一之鳥居に至る。
広域からアクセスする場合には、国道294号線バイパス沿いのイオン下妻店の北側の信号機を西進すると、東ノ鳥居を潜り先程の一之鳥居に至る。
【駐車場】は、一之鳥居の南側及び右側(ゑびすや(厄除け団子)前)、社務所の東方(大宝保育園)に確保されている。
【トイレ】は、八幡宮のしおりでは、社務所及び大宝駅のトイレが案内されている。
なお厄除け団子の「ゑびすや」で休憩がてらも現実的。