稲聚神社 丹生神社(いなとりじんじゃ たんしょうじんじゃ)主祭神 倉稲魂命合祀神 高龗神 水速女神御縁起(歴史)「郡村誌」が「四方に山を帯ひ渓水村の中央を貫流す。
地形高低あり運輸車を用ゆ可からす唯馬を用ゆ」とその地勢を描写しているように、稲沢に身馴川(小山川)の支流である稲聚川の流域に位置する山村です。
その地内は、かつては上稲沢・中稲沢・下稲沢の三村に分かれていましたが、明治五年(1872)に合併して一村となりました。
当社は、この上・中・下稲沢三か村の鎮守であり、また「三代実録」に載る稲沢郷池田庄稲沢鎮座の稲聚神社であるといわれています。
その由緒は、境内の「稲聚神社伝来碑」によれば「大同三年(808)の創建で、天安元年(857)に神階正六位上に列し、貞観十七年(875)には従五位下に昇格した。
その後、応永六年(1399)の旱魃の際、丹生神社を合祭した」といいます。
更に「明細帳」は、丹生神社の勧請は、この旱魃で流末の各村から「当社の位置は大和(現奈良県)の吉野川における水徳の神丹生川上神社と同じである」との声があったことを契機とするものであり、尊崇が深いためついには稲聚神社は客社のようになっていると記しています。
「風土記稿」にも、当社は上稲沢村の項に「丹生社 上中下稲沢村の鎮守とす、満福寺持」と載り、古くから丹生神社としての信仰の方が強かったことがわかります。
明治維新後は、神仏分離により満福寺の管理を離れ、社号を稲荷神社と改称して村社となり、明治二十八年(1895)には社号を稲聚神社に改めました。
(境内案内板より)
武蔵国の式外社。
旧村社。
御祭神:倉稲魂命(うかのみたま)。
創建:平安時代。
御由緒書きには、当社は『三代実録』に載る稲沢郷池田庄稲沢鎮座の稲聚神社であるといわれている。
その由緒は、境内の「稲聚神社伝来碑」によれば、「大同三年(808年)の創建で、天安元年(857年)に神階正六位上に列し、貞観十七年(875年)には従五位下に昇格した。
その後、応永六年(1399年)の旱魃の際、丹生神社を合祭した」という。
更に『明細帳』は、丹生神社の勧謂はこの旱魃で流末の各村から「当社の位置は大和の吉野川における水徳の神丹生川上神社と同じである」との声があったことを契機とするものであり、尊崇が深いためついには稲聚神社は客社のようになっていると記している。
明治維新後、社号を稲荷神社と改修して村社となり、明治二十八年には社号を稲聚神社に改めた。
とあります。
ところで、808年創建時の稲聚神社とは何だったのかが思い馳せられます。
稲聚川の流域にあるとあり、その稲聚が社号なのでしょうか。
御祭神の倉稲魂命は、『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記するとあり、別称は稲荷大明神で稲荷神社の御祭神です。
それで、「明治維新後、社号を稲荷神社と改修して」とある様に稲荷神社と呼んでた時期があり、実際今でも稲荷神社としている記事も見かけます。
(お稲荷さんのお使いの狐さんはいませんでしたが)また、丹生神社を合祭して以降、丹生神社の社名の方が知られるようになったとあり、丹生神社という社号の知名度を感じますが、実際、鳥居(一の鳥居、二の鳥居とも)の社額は稲聚神社、丹生神社の並記で、拝殿に至っては二社の社額がそれぞれ掲げてありました。
二社合殿と言うことでしょうか。
現在は正式な社号は「稲聚神社」と言うことです。
三代実録(日本三代実録)に載るとは、延喜式神名帳とはまた違った平安時代に編纂された歴史書に載っている、国史見在社と言うことです。
道路を隔てた反対側のところに狩猟センターの様な建物があり、マタギの様なハンターの人に声を掛けられ、付いていったら、シカの頭を大きな寸胴釜で煮立てているのを見せてもらいました。
この辺はシカ、イノシシが出るそうです。
クマはどうですかと聞いたら、それは出ないそうです(今は?)。
そう言えばここへ来る途中、道路傍に「摩多羅神」という小さな赤い鳥居がありました。
稲聚神社(いなとりじんじゃ)創建808年 1200年前からの古社♡ー境内 御由緒書ー................当社は.....『三代実録』に載る稲沢郷池田庄稲沢鎮座の稲聚神社であるといわれている その由緒は.....「大同三年(808)の創建で........その後 応永六年(1399)の旱魃の際 丹生神社(たんしょうじんじゃ)を合祭した..................」
名前 |
稲聚神社 丹生神社 |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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稲聚川が前に流れているので、稲聚神社(いなとりじんじゃ)と云うのですか?稲沢地区の鎮守様です。
稲聚神社の御由緒の説明板が壊されています。
昔からの神社のようで、丹生神社や稲荷神社だったようです。
稲荷は住吉神社の奥の社殿にはお稲荷様が置いてありました。
丹生神社は武蔵七党の丹党系に関係がある地域だったのですかな?