隣の閉鎖された旧トンネルは昔霊が出ると言われていた...
独特の雰囲気謎に手入れされた山頂、尾根には古い電信柱とトーチカ。
古戦場跡の碑は置いておいて…折角なので予備知識なく発坂峠を登ってみました。
で途中で気付きました、これアカンやつだと。
というか普段着の素人だと普通に死ねます。
土砂崩れ跡を這って登りましたが崩落が多くてどちらにいけばいいのか…トンネルが短いため峠も短いと誤解してました。
需要もないので修復は当面無さそうですね🥺
安房の里見氏と地元の土岐氏の合戦場、隣の閉鎖された旧トンネルは昔霊が出ると言われていた。
鳥居をくぐって荒れた山道を登って行くと峠道の跡らしき道があり、明治時代の人々の往来があったのだと思うと感慨深い。
雰囲気良い感じ!
ビックリマン補助標識。
見えない友達が徘徊。
この地に来てみると歴史の流れをひしひしと感じられます。
千葉で数少ないビックリマークの標識があった場所と、異常に厳重すぎるトンネルの閉鎖感。
拡幅と線形改良で棄てられたトンネルに近づける、廃道ビギナー向けスポット。
歩行者用トンネルのおまけもある。
里見軍と土岐軍の古戦場跡地。
他、トンネルの上に歩兵第428連隊「沿岸防衛師団」によって作られたトーチカがあるそうです。
旗立山(発坂峠)には石碑や神社があるそうですが、途中倒木と土砂崩れがあり通行は難しくなっています。
名前 |
発坂峠古戦場 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
『天正十七年六月六日、御宿に上陸。
釈迦谷までを進めた里見千五百騎は夕刻、軍を二分し、三百人を坂水寺の下を経て東に迂回させた。
物見による この報告では挟み撃となる。
妙見大菩薩を祈り、全軍の峠越を伝える。
旗建峠にて夜営、翌朝発坂峠で里見を待つ。
翌七日朝激突、里見の死者百九十人。
萬喜城土岐軍大勝利。
里見は館山に逃げ帰った。
大将 萬喜城主 土岐右京大夫頼春公。
』発坂峠は、「房総治乱記」や「関八州古戦録」などの軍記に伝えられる古戦場で、付近に、矢玉、矢中、弓折塚などの地名が 残されている。
峠のいただきの旗立(建)山に、かって一株の松があり、万喜の土岐氏が、房州の里見勢を迎え撃つため、ここに陣をしいたという。
この峠は江戸時代から明治三十年ころまでの主要な往還であり、 庚申塔、馬頭観音などの石仏や茶店の跡なども残っている。
東に太平洋、西に霊峰富士を望む眺望は絶佳で、安永二年 (一七七三)生まれの仁医、田丸健良(いすみ市今関の人)は、 四季おりおりの発坂峠を漢詩にのこしている。
【現地案内板より抜粋】廃道となった隧道手前に、鳥居と看板、石碑などがある。
独特の雰囲気があるが、古戦場跡にしては仰仰しい位の説明に溢れている。