名前 |
雷電神社(板倉城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
要害山雷電神社主祭神 別雷命 大雷神配祀神 天児屋根命 経津主命 武甕槌命 比賣神 市杵嶋姫命由緒沿革要害山頂に鎭座しています。
板倉二郎義顕が物見の守護神として祀ったと伝わる神社です。
寛永十年(1633)修復。
明治四十二年(1909)春日神社、厳島神社を合祀しました。
昭和十五年(1940)社号標に「雷電神社」。
要害山西側の麓に「板三自治会館」があり、敷地に隣接して一の鳥居があります。
一の鳥居から先は急な斜面の参道石段が続きます。
斜度は30°位でしょうか、スキー場なら摺り摺り滑って留まっていられない角度です。
石段の先に二の鳥居が見えます、そこまで進んで参道石段の1/3位です。
同じ角度の急な参道石段の残り2/3を登ると視界が開け、松田川沿いの板倉町から葉鹿町まで木々の間に見渡せます。
参道はそこで終わりではなく、傾斜は緩やかになりますが、更に尾根道を進みます。
岩場の道に「山神宮 大天狗 小天狗」の石碑が見えたらもうすぐ到着します。
山頂の社殿は傷んで、外壁が半分しか無くなっていますが、社殿の中央には二社の木製の御本殿が祀られていました。
「下野神社沿革誌」による記載本社は八幡太郎源義家の三男式部大輔義國の孫足利宮内卿泰氏二男板倉次郎義顕此地へ(今の要害山物見の地なり)物見鎭護として崇祀す天正年間澁川氏崇敬后寛永年中領主土井大炊頭本社再建高木主水正より年々祭饌料として米一石六斗を献納せらる又寛永年中(1624~1644)領主古河城殿中へ落雷せしに不思議にも火鉢の中へ壓ちて怪我なかりし故偏に神の擁護なりとて其火鉢を本社々地に埋め篤く信仰せり嘗つて神威の著るしき人の知る所なりされは今の社掌長嶋氏之れか講社を結ふ遠近に信徒多く盆々盛大に赴くといふ因に云ふ土井大炊頭か埋めをきし火鉢隣村喜福寺といへる禪寺ありしか其寺の小僧彼の火鉢を堀り出たし將さに山を降らんとする時晴天なりしも一天忽ち墨を流すか如き雲起り沛然として雨は盆を傾くるか如く雷さへ鳴れはためきて恐しなんと言ふ圤?りなし豪氣の小僧之れに恐れす遂に火鉢を得て去れる云々と今に其火鉢は同寺にありて雷火鉢と呼て什器の一なり本社境地は直立三百尺周圍六百四十問断崖絶壁仰けは松杉の風賴を聞くへし伏して松田川の淸流を掬すへし本大字中央より午未の方に在り巍然として峙つもの此れ即ち要害山なり本社は此の霹頭にあり規模宏麗ならすと雖とも高雅幽淒神寂ひたるさまのいと貴ふとき心地す東南北の三方は近く田甫を扣へ西南遥に赤城吾妻淺間春名伊香保妙義秩父金山等の巒峯蜿々起伏すると視る某の方翠雲巒畳々山深き邊嶄然として雲表に聳ゆるものは日光山なり北の方庚申山を隔て餓然天を突くものは岩代の磐梯山なり飜つて眸を轉せす兩毛武の野渺々として徐むろに淡霞を求め渡良瀬川の一韋帶水を踰へて滾々たる利根の大流平塚より古河に走るの間白帆片々暭々たる斜陽に映し金鴉柄を急へて明滅たるを覗き幽かに芙蓉峯の白皚々たる情景に到すへし嗚呼山を樂み眺望佳にして浩然の氣を養ふ風光の美之に過くるものあらん山麓奇松の下怪岩の上に一基の碑あり天保年中領主高木主水正の建設したるものにて銘に曰く「勸むれは貧にかつ慎めは禍にかつ」十二世主水正源朝臣正明書とあり其他寺門良文撰立原某書及ひ芳川逸撰大竹培書岡田威士の記にして生方寛の筆に成れるものあり(明治三十五年「下野神社沿革誌」より)