第二次世界大戦で被災し戦後復元された。
八卦堂(はっけどう)と読むんですね。
見たところ釘を使わない作りのようですね。
戦火で焼けてしまい復元されたものですが、味のあるお堂ですね。
神社の中にあるので、神社関係の施設だとばかり思っていました。
建学の精神の象徴である弘道館記碑を納めた八卦堂は、藩校当時は、敷地の中央に位置していました。
八卦堂のそれぞれの軒には、万物変化の相を示す易の算木(さんぎ)を配し、その中に万古不動の日本の道を説いた弘道館記の碑を建てたことは、斉昭の絶妙な発想であるといえます。
昭和の戦災で、中の弘道館記碑を守りながら八卦堂は焼け、昭和28年(1953年)に復元されました。
復元されたお堂。
内部を見ることはできない。
古くて趣のある六角堂です。
第二次世界大戦で被災し戦後復元された。
中に納められているのは、弘道館建学の象徴を表す石碑であるが、東日本大震災で被災し修復。
特別公開の際に石碑を見る事が出来たが、次はいつだろう。
弘道館八卦堂。
20200516~17第2回茨城⇔千葉弾丸帰宅洗濯ツアーに行って来ました!「ホテルルートインひたちなか」を8:30に出発して、5月12日~入場再開した「弘道館」に立ち寄りました!弘道館の拝観を終え、「八卦堂」に向かいます!建学の精神の象徴である弘道館記碑を納めた八卦堂は、藩校当時には敷地の中央に位置していたそうです!八卦堂のそれぞれの軒には、万物変化の相を示す易の算木(さんぎ)を配し、その中に万古不動の日本の道を説いた弘道館記の碑を建てたことは、斉昭の絶妙な発想であるとの事です!昭和の戦災で、中の弘道館記碑を守りながら八卦堂は焼けましたが、昭和28年(1953年)に復元されたそうです!近くには「種梅記碑」「要石歌碑」が点在しています!「種梅記碑」:斉昭自撰の名文「種梅記」が自筆の隷書で刻まれています。
斉昭は、春に魁(さきがけ)て咲く梅を愛し、また梅干しは軍事の際の非常食として役立つとして、偕楽園と弘道館をはじめ、その近郊や士民の家にも梅の木を植えさせました。
「種梅記」には、斉昭が梅に込めた思いが記されているそうです!「要石歌碑」:斉昭の自詠自筆で「行末(いくすえ)も ふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける」とあり、その大意は「日本古来の道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏み違えることがあってはならない」です。
歌意と鹿島神宮の「要石」になぞらえて「要石歌碑」という名がつけられたとの事です!
復元されたものですが、見る価値あると思います。
はっけ堂だそうです。
当たるも八卦ですね。
その算木が取り付けられているためそう呼んでいるみたい。
幕末期の水戸斉昭公撰文の碑文が納められているとのこと。
訪れるのにいい場所(原文)ice place to visit
彫刻がきれいです。
弘道館建学の精神を刻んだ弘道館記碑を収める覆堂です。
昭和の戦災で焼失したものの、往時の姿を模して再建されているので趣があります。
通常は閉扉されていて弘道館記碑は見ることができませんが、私が訪問した折には特別公開されていました。
精緻な木造建築とは言え小さな御堂が一つあるだけなので☆三つの評価も微妙ですが、史跡の構成要素としては十分な見ごたえがあります。
弘道館建学精神の象徴である弘道館記碑が収められているので、弘道館見学の際にはぜひ周るべきところです。
東日本大震災で被災しましたが、現在は修復されています。
名前 |
弘道館 八卦堂 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
029-231-4725 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
建学精神を刻むる弘道館記碑を収める八非堂は、藩校当時は敷地の中央に位置していました。
八角面の軒下に万物変化の相を示す八卦の算木を配し、その堂内には万古不動の日本の道を説く弘道館記碑を置くという構成には、徳川斉昭の宇宙観が込められています。
大きさは高さ3.18m、幅1.91cm、厚さ0.55mです。
八卦堂は、昭和20年(1945)の空義で全焼し、同28年に復元されました。