韮山の蛭ヶ小島が最初ではなかった。
伝・伊東祐親の墓所(市指定史跡) / / .
大河ブームで来ました。
駐車場はありませんが、伊東市のホームページに伊東市役所の駐車場利用可(無料)とのこと。
歩いて10分も無い所にあって助かりました。
住宅街にひっそりとあって、静かにお参りできました。
現天皇が浩宮様の頃訪問されたとか。
伊東市を納めていた祐親の墓です。
卒塔婆も立てられいて、よく管理されています。
ただ、大変な坂の上にありますが周辺に駐車場がなく、観光名所としては配慮に欠けています。
源頼朝が伊豆に流された時、韮山の蛭ヶ小島が最初ではなかった。
🌟伊藤一刀斎の祖先の武将の墓(伊藤一刀斎の本名は、伊藤景久)生没年は、1550年(天文19年)生年説、1560年(永禄3年)生年し1628年(寛永5年)没説、また1632年(寛永9年)に90余歳で没説、1560年(永禄3年)8月5日 (旧暦)に生まれ1653年(承応2年)6月20日 (旧暦)に94歳で没説がある。
出身地は、一般には伊豆国伊東の人であり、出身地から伊東姓を名乗ったといわれている。
(ただし、伊東には伊東一刀斎についての伝承、伝説等は一切伝わっていない)しかし、「瓶割刀」の逸話によれば、一刀斎は伊豆大島の出身で、14歳のときに格子一枚にすがって三島に泳ぎ着き、三島神社で富田一放と試合して勝ち、神主から宝刀を与えられた。
この刀で盗賊7人を斬り殺し、最後の1人が大瓶に隠れたところを瓶ごと二つに斬ったという。
ほかに、『一刀流傳書』によれば西国生まれとし、山田次朗吉によれば古藤田一刀流の伝書に近江堅田生まれの記述があるという。
『絵本英雄美談』によれば加賀金沢か、越前敦賀生まれで、敦賀城主大谷吉継の剣の師だったが、大谷が関ヶ原の戦いで戦死したために浪人し、下総小金原(現在の松戸市小金付近か)に隠棲して死去したともいう。
また、終焉地についても丹波篠山説もある🌟伊藤一刀斎は、技伝授も他の稽古も真剣で行って居たそうだ(一刀流を源流とする流派の奥義は、とても危険で師匠も弟子も命をかけたものだと言われる)つまりどちらも死を覚悟した伝授であるから技伝授中の事故で亡くなったと言うのが一般的弟子は、師匠を事故でも殺してしまい気が動転して逃げたとも言われる小野忠明(小野派一刀流の創始者)などの高弟との技伝授中とも言われる🌟徳川幕府剣術指南役🌟覚悟は、していたものの師匠の死を受け入れがたい忠明の心は、乱れたに違いない伊藤一刀斎は、日頃から死を覚悟して稽古をつけていた事も有名(江戸中期くらいになると危険な技は、禁じ手として省かれる)要因にも成る伊藤一刀斎の持論では、危険だからこそ実戦向きで役に立つ道場剣術との差別化がはかれると高弟達に話していたのは、有名常人には、理解できないが一刀斎や高弟達は、理解していた剣士は、剣に生き剣に死す(一刀斎は、忠明を恨んでは、居なかったに違いない)だが一刀斎の娘がそれを目撃して居り忠明をカタキとして恨んだ(娘にカタキをとる力量は、無かった)女性には、男達の覚悟は、身勝手に見えるかも(危険をおかさずとも生きていてくれれば)一刀斎の娘証言が現代まで全国各地の一刀流の高弟達の口を通じ伝説化したと言える🌟天正年間、相模三浦三崎に戸田一刀斎が諸国武者修行の途次に立ち寄り、多くの入門者があったとされる。
このとき、北条氏の家臣、古藤田俊直(古藤田一刀流、または外他一刀流、唯心一刀流の祖)を高弟としていることから、この戸田一刀斎は伊東一刀斎に間違いなさそうである。
1578年(天正6年)、三浦三崎に唐人(中国人)が来航したときに十官という中国刀術の名人がいて、一刀斎は扇一本で木刀を持った十官と試合し、勝ったといわれる🌟幕末には、坂本龍馬や新撰組隊士の多くが学んだ北辰一刀流にも繋がる流派の創始者◆剣道や柔道がスポーツとかした現代では、禁じ手は、増える一方である原型の剣術や柔術は、殺人術で戦場で相手を倒す事が目的🌟🌟🌟🌟工藤祐経(くどう-すけつね)は、伊豆の伊東荘の領主・工藤祐継(工藤滝口祐継)の嫡男として生まれたが、父が幼い頃に亡くなると、その後見人として叔父・伊東祐親(いとう-すけちか)と同一人物(河津祐親)が面倒を見る。
しかし、そもそも伊東祐親の祖父・工藤祐隆が、本領の伊東庄を後妻の連れ子であった工藤祐継に継がせ、伊東祐親には河津庄が与えられていたことから、不満を持っていた。
そのため、工藤祐経が元服して平重盛に仕えて上洛している間に、伊東荘を伊東祐親は占拠した。
この時、工藤祐経の妻・万劫御前(伊東祐親の娘)をも、早川荘の土肥遠平に嫁がせた。
京にて押領に気が付いた工藤祐経は、訴訟を起こして平家に訴えるも、平清盛からの信頼も厚かった伊藤祐親の根回しによりうまく行かなかった。
伊東祐親を恨んだ工藤祐経は、1176年10月、伊豆奥野の狩り場から戻る途中、郎党の大見小藤太と八幡三郎によって、伊藤祐親の嫡男・河津祐泰を弓にて射殺させた。
(享年31)河津祐泰の遺児となった5歳の一萬丸(十郎)と3歳の箱王(五郎)の兄弟は、母の満江御前(横山時重の娘、工藤茂光の孫)に連れられて、再嫁先の相模我荘の領主・曾我祐信のもとで養育された。
この兄弟が、のちに「曾我兄弟」と知られる、曾我祐成と曾我時致である。
1159年に源頼朝(14歳)が伊豆・韮山の蛭ヶ小島に流されると、北条時政と共に監視役を命じられる。
そんな中、伊東祐親が大番役で京の治安に当たっているとき、3女・八重姫(やえひめ)が、源頼朝と通じ、やがて千鶴丸(千鶴御前)と言う男の子を産む。
千鶴丸(千鶴御前)が3歳になった時に、伊豆戻ってこれを知った伊東祐親は激怒し、1175年9月、平家に露見することを恐れて、千鶴丸を松川に沈めて殺害した。
さらに源頼朝の暗殺も図ったが、源頼朝の乳母・比企尼の3娘を妻とし源頼朝とも親交があった、次男・伊東祐清は源頼朝に危険を知らせた。
そのため、源頼朝は闇夜に紛れて熱海の伊豆山神社へ逃げ込み、窮地を脱している。
その後、源頼朝は北条時政の館に匿われて無事に保護されたが、伊東祐親はこの前後に出家したと言う。
このように、北条時政の元で暮らすようになったため、今度は北条政子が源頼朝と恋仲になったものと推測できる。
そして、北条政子と源頼朝が結ばれたのを知った伊東八重(八重姫)は、入水して自らの命を絶ったと言われているが、千葉氏などへ嫁に行った。
なお、北条時政の本拠地である守山の麓には、八重姫を祀った真珠院がある。
1180年8月、源頼朝が挙兵すると工藤祐経の弟・宇佐美祐茂(うさみ-すけしげ)は協力。
それに対して伊東祐親は、大庭景親らに味方して石橋山の戦いにて源頼朝らを撃退した。
しかし、勢力を盛り返した源頼朝は、富士川の戦いにて伊東祐親を捕虜とし、伊東祐親の娘が嫁いでいた三浦義澄に預けた。
三浦義澄は、伊東祐親の助命嘆願を行い、一命を許されたが、伊東祐親は娘・八重姫が産んだ子を殺害した事として「以前の行いを恥じる」と言い、自害した。
この時、挙兵前に自分の命を救ってくれた、伊東祐親の跡取りである伊東祐清に、源頼朝は恩賞を取らせようとしたが、父が敵であった以上、恩賞は受け取れないと拒んだだけでなく、暇乞いを願い出て、以後、伊東祐清は平家に味方し、北陸道にて討死にしている。
ただの石碑?(´・ω・`)
名前 |
伝・伊東祐親の墓所(市指定史跡) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0557-35-0747 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
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伊東祐親の墓所駐車場が無いのでご注意。