名前 |
小名木川五本松跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
見給え!ここには、ちゃんと松が植えられているではないか。
「枯れたと不平を言うよりも、すすんで松を植えましょう。
」・・・こころの松当河川は、徳川家康が関東に移封され、江戸に居城を定めてより、関東支配に向けての基礎を固めるべく城下の整備を着々と進めていく中、兵糧となる塩の確保の為、下総行徳(塩田があった)と隅田川間を直線状に結ぶ様開発された運河である。
東西に延びる直線状の河川で、更に、行徳までの運河新川を開発して、従来の江戸の湾内の海難を避けることに成功した。
これを開発に携わった小名木四郎兵衛の名に因んで小名木川と称する。
以来、江戸前産物の流通路や、成田山新勝寺参詣の道として繁栄した。
幕末、戊辰戦争の戦乱において、房総半島方面に脱走した旧幕府軍撒兵隊等を追討すべく、新政府軍は薩摩藩を中心に下総方面に派兵を開始する。
【市川船橋傍近戦争聞書】 慶応四(一八六八)年閏四月「八幡旁近戦争等ノ風説ヲ記ス、市川船橋旁近戦争状況ノ聞書及賊軍ヨリ道中方ヘ届書ヲ載ス」(閏四月)一部抜粋五日晴官軍菊ノ御旗建高瀬舟七艘ニ乗込援兵トシテ発小奈木川通リ也但薩人多シト云、又夕刻八艘出合十五艘ト云風聞レベルの拙い情報であるが、新政府軍が高瀬舟に錦旗を掲げて、房総方面に航行行軍する様を記した記録文書が存在する。
されども、こんな目立つ有様を、噂と片付けるのも難があるような気がする。
錦旗を靡かせ、悠々と航行する十五艘の高瀬舟、その雅な様もさることながら、今にも残る徳川家の遺産ともなる小名木川が、旧幕府勢力を追討するための道標になってしまった事も、歴史の皮肉であろうか。