ブナが生い茂る山深いところでした。
ブナが生い茂る山深いところでした。
車で通過したのみなので奥にはどんな道があるのだろうと想像を掻き立てられました。
次回は歩いてみたいです。
旧野麦峠は初めてです。
初めてと言うより、もう行く事はないと思います。
まだ乗鞍岳が車で入れた頃、白骨温泉側から行きました。
その時に「野麦峠」の看板を何度か見かけ気になっていたので、今回は、安曇野の戻りに走ってみました。
単なる道?映画にもなっていたとは知らず、今となっては、もっと知識を頭に入れて行けば、また違った風景に見えたかもしれません。
取りあえず「野麦峠」の標識のあるところを片っ端から停め、ちょいと覗いて見る感じかな?安曇野では30度もあった気温が、野麦峠では、半袖では鳥肌が立つ位肌寒かったです。
釈尼妙美、明治四十二年十一月二十日往生角川、政井 友二郎娘ミネ二十歳河合村専勝寺お助け茶屋からお助け観音へ登りはじめて直ぐ左手に在る “ 拓本の館 ” が忘れ去られようとしています⋯野麦峠に関わる全てが記念碑ですね⋯今日は撮り忘れの看板と“ 水 ” を撮影しました。
私は宗教者ではありませんが、一寸一言、理解者として此処に述べます。
- キリスト教と架刑像と記念碑について -本当の、本来のキリスト教徒が十字架携え、其の架刑にあった人間の像を毎日想い観る理由は、磔にされた人間を見て喜んでいたり、有難いと、想い観ている訳では無い、彼等は “ ムカついている ” のである、彼等は十字架上の彼に “ ムカついている ” 訳では無い、其れは “ ともすれば他を犠牲にしてまで、何かを成就させようとしている自身の内面 ” に向けての “ ムカつき ” である、其の “ ムカつき ” が次なる “ 犠牲 ” を報せ、彼等各々の自覚に由って “ 次なる “ 犠牲 ” を防ぐからである、彼等が常に彼と人生を歩むのは其れが所以である。
彼等がキリストを “ 唯一 ” のとするのは、キリストブランドを保とうとしている訳では無い、次なる犠牲を出さぬが為のものである、「犠牲を出すつもりは無かった、だが犠牲を出してしまった、犠牲を出すのは一度限りで十分だ⋯」そして彼の像を刻み、其の彼と人生を共に歩むのである、人間が存在w続ける限り⋯⋯⋯彼等は “ 彼の其の状態 ” を良しとしている訳では無い、彼等が本当の、本来の彼等であるのならば。
- 事実は真実の影である -
場所自体はただの峠。
歴史や文学などの前知識を持って興味ある人にはたまらない場所でしょう。
尚、峠道の前後でGSが乏しく、あっても営業時間が短いのでガソリンは余裕持って行くように。
下手側に、未舗装ですが広い駐車スペースが有ります。
2018.8現在、入口部分の改修工事中ですが、侵入は可能です。
徒歩で登って行けば野麦峠まで出られます。
熊注意。
2005年頃の8月に訪問。
現在の野麦街道を峠に向かって登る途中の急なカーブで前で、暗くて狭い道が右奥の山中に分け入っていきます。
説明ボードを読んで往時を偲んでみるのに最適です。
名前 |
旧野麦街道 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0263-34-3292 |
住所 |
|
評価 |
4.0 |
道路封鎖から一週間、凍結になる前に訪問しました。
道の葉っぱが多く急ぐと危ないですね。