駅前ですが、非常に寂しい状態です。
待ちあわせ場所にうってつけ。
「桶狭間で敗れた公家かぶれの武将」というイメージを払拭し、現在の静岡の礎を築いた功績を広めようと、静岡市や静岡商工会議所が昨年義元公の生誕500年を迎えたことから「生誕500年祭」の一環として銅像設置も企画されたそうです。
竹千代(家康の子供の時の名前)と今川義元の像ですね。
どちらも静岡に関係のある歴史上の人物です。
近くに大きな椅子があることもあり、待ち合わせ場所にする人も多いです。
この辺は鳩が多いのが難点ですが…
家康が今川義元の人質だったということくらいは知ってはいますが、しかしこの駅前の像はいったいどういう意図で作られたんでしょうか。
竹千代と今川義元のなんとも言えない表情が心情を表しています。
徳川家康に所縁がある場所ということで、徳川家康幼少期の竹千代の像が静岡駅前にあります。
キリッとした目線が力強さを感じる像でした。
天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。
しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。
だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。
このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない。
また、近年の研究では、天文16年9月に岡崎城が織田氏によって攻略されたとする文書(「本成寺文書」『古証文』)の存在が指摘され、松平広忠が織田氏への降伏の証として竹千代を人質に差し出した可能性も浮上している。
2年後に広忠が死去する。
今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。
しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された。
墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。
31.3.10 さわやかウォーキング ⓶世にも珍しいオレンジの幟を持った竹千代君です( ̄∀ ̄)笑今回のさわやかウォーキングはここからスタートでした♩
老将 徳川家康像の近くに幼少期の竹千代像があります。
握りこぶしがいいですね。
偉大なる家康先輩のご幼少の頃だと言うのに人っ子一人いやしなかったので僕がご挨拶させていただいた。
待ち合わせ場所です。
鳩が多いのが特徴です。
雨天だと屋根がないため待ち合わせには使えません。
家康の幼名である竹千代君という名前の通り、幼き日の少年・徳川家康の銅像が静岡の駅の側にそっと立っております。
家康の青年~老年の銅像は各地にあるけれど、少年家康の像は異色かと思います。
駅からほんとすぐ側にあり、歩いてすぐにいける場所にありますので、お時間があるかたはちらりと見るだけでも面白いかと。
駿府城のあった静岡ならではの銅像といえます。
そりゃ、ここに置きたいよね。
歴史を感じます。
握った手がまた印象的!
電車で静岡に来たら真っ先に撮影する場所です(笑)
記念撮影にいいね。
今で言うところの「三河のぼんやり」時代の家康像です。
少し離れた所(葵タワー手前の道沿い)に家康像もある。
記念撮影によいかも。
駅前ですが、非常に寂しい状態です。
もっと観光に訪れてみてください!人質の頃より淋しい思いをしています(泣)竹千代君像(家康公の幼名)は、家康公が8歳から19歳まで今川氏の人質として過ごした幼少期の姿です。
名前 |
竹千代君像 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
054-221-1120 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.9 |
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フレッシュな家康君と武な感じの義元さん、地方都市の入口且つ名所巡りのスタート地点って感じです。