小山川の左岸北方の台地上に位置します。
金屋白髭神社(かなやしらひげじんじゃ)御祭神 猿田彦大神御縁起(歴史)当地は、小山川の左岸北方の台地上に位置します。
当地の歴史は古く、地内を鎌倉街道の枝道といわれる「上杉道」が通り、県立博物館所蔵の「武州児玉郡金屋中林家次」と記される長享二年(1488)の懸仏のほか、大滝村三峯神社には「武州児玉金屋住中林次郎太郎信心施主」と記される天文十四年(1545)の懸仏があります。
このように、当地には倉林と中林を名乗る鋳物師が居住したことが知られ、このことにより金屋の地名が起こったものとされています。
当社の創建についての伝承はないですが、古くは現在地より400mほど西、今の金屋小学校の敷地内に祀られていたと伝わっています。
しかし、鎮座地が村の中心である字倉林より見て鬼門に当たるため、いつのころか現在の地に遷し、村の守護神として祀ったといいます。
ただし、白髭神社を祀った経緯は不明です。
口碑に当地と高麗郡下加治村(飯能市下加治)と関係があったといわれることから、下加治に鎮座する白髪神社(現白子神社)を勧請したか、あるいは各地の白鬚(髪・髭)神社が渡来氏族の信仰を集めていることから、鋳物の技術を持った渡来系の人々が当地に移住し、崇めていた神を祀ったのかなど考察されますが、明確ではありません。
明治初年に紛失したといわれる古文書の写しには、享保年間(1716~1736)に正一位の神階を授けられたとあり、その中で当社は「しらかの社」と呼ばれていたことが知られています。
(境内案内板より)金鑽神社(神川村)と「金屋」地区白髭神社北方の埼玉県立児玉高等学校の北側を女堀川が流れ、更にその北側、国道254号線と交差するように「九郷用水」が流れています。
この灌漑用水である「九郷用水」には、昔この地方が旱魃になやまされ農民が苦労していた時、この国の国造が金鑽神社(神川村)に祈願すると、一人の童子があらわれて「私が金龍になって神流川の流れを導くから、それにしたがって水路を開き用水にしなさい」とお告げがあり、不思議なことにその夜明け、金色の大きな龍が神流川の水中よりあらわれて、野原や田畑をよこぎり進むと、ある高台にのめり上り、姿を消しました。
その高台が東福寺で、その金龍が通った跡に堀を開いてできたのが九郷用水であると伝えられています。
この縁起から、国造が金鑚神社に祈願したことや、九郷用水周辺には多数の金鑚神社が鎮座していることから、この地域一帯は金鑚神社の信仰地域であったと考えられ、神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術を、金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っています。
そしてこの技術者集団が居住していた地域の一つがこの白髭神社が鎮座する「金屋」地区であったのではないかと推測されます。
(ブログ「古社への誘い 神社散策記」参照)
社の後ろに彩色を施した彫刻があります。
「白髭」から鋳物技術を持った渡来人が祀った神社らしいとか。
名前 |
白髭神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
御神木が有る自然豊かな神社。