木によって見渡せませんが、建物は歴史をを感じる。
現在ここからの景色は、木によって見渡せませんが、建物は歴史をを感じる。
中には入れません。
また昔と違い、廻りには雑木が生えてここから景色は見えません。
入り口は封鎖されています。
立野原に比べると見劣りするかも。
go の let's goシニアさんウエブサイト引用:立野ヶ原の監的壕(たてのがはらのかんてきごう)福光町の南の丘陵地帯は立野ヶ原と呼ばれていて、現在はのどかな田園地帯になっていて、特産の柿を栽培する果樹園や畑作、水田などが広がっています。
この丘陵地帯の歴史をひもとくと、1898(明治31)年ごろからこの地は日本陸軍の演習場であった時代が有ります。
日清戦争が1895(明治28)年で終わった後の1898(明治31)年に砲兵装備を有する金沢第9師団が設立されました、設立と同時期に陸軍省はこの立野ヶ原を射撃演習地として着目して、四回にわたって147万坪(一節では180万坪とも言われている)を買収して「立野ヶ原陸軍演習場」を設置され、砲兵のみならず諸兵科の訓練場として全国でも富士山麓に次ぐといわれる大演習場となった。
現在の立野ヶ原の一角にある桜が池では、湖畔の杜の中に遊園地や宿泊施設があってのどかな光景が見られます、湖畔の後方にこんもりとした丸い山が見えますが「丸山」です、演習場時代には砲撃の着弾地の目標になった山です。
丸山監的壕(まるやまかんてきごう):桜が池から丸山を越えるジグザグ道を登って行くと道路の脇に大きなコンクリート構造物が有ります。
演習場だった頃の遺物「丸山監的壕」(まるやまかんてきごう)です、この監的壕は砲弾の的中率や機能、効果を観察するための壕です。
表示看板の原文:監的壕眼下の桜が池から北へ3キロメートル、東西2キロメートルに亘って広がる丘陵が立野ヶ原で、先土器時代から縄文時代を中心とする遺跡が点在する県下有数の埋蔵文化財包蔵地帯である。
日清戦争が終わり、翌年の1896(明治29)年に砲兵装備を有する金沢第9師団が設置され、陸軍省はその射撃演習場としてこの立野ヶ原に着目した。
同年5月から四回に亘り147万坪、当時の南山田、太美山、東太美山村にまたがる一帯を買収して、「立野ヶ原陸軍演習場」が設置され、砲兵のみならず諸兵科の演習地とした。
特に砲兵の実弾射撃は、飛野(現在の自動車学校のあたり)を拠点として実施され、この地丸山周辺を被団地としていたので着弾効果を観測する為に「監的壕」がいくつか建造された。
この監的壕はその最後の建築物で、昭和10年代の遺構であり、現在演習場としての当時を偲ぶ唯一の遺産である。
民報城端NO.410 2014年5月 引用:南砺市指定文化財(史跡)2014/4指定明治31年(1898)11月、金沢に砲兵装備を有する第九師団が設置された。
陸軍省はその射撃演習場として立野原に着目し、翌32年5月から当時の南山田・太美山・東太美各村にまたがる一帯を買収して「立野原陸軍演習場」を設置した。
演習場では実弾射撃訓練が行われ、特に砲兵の実弾射撃は、飛野(現南砺自動車学校のあたり)を拠点とし、丸山周辺を着弾地としていたので、砲弾の的中率、性能効果を観察するための「監的壕」がいくつか建造された。
当初は土坑であったものが、昭和初期に当時貴重な資材とされていた強固なコンクリート製に改修されたようである。
これらの監的壕は、立野原台地がかつて軍事演習場として利用された歴史を今に物語る遺構として貴重な存在である。
名前 |
丸山監的壕 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=16592 |
評価 |
3.3 |
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保存状態は良いですが、中には入れませんでした。