見晴らしの良いところです‼️
駐車場はトイレの前に数台が止められます。
駐車場から階段を登るとすぐに広い芝生の広場に出ます。
お城の石碑が奥にあります。
山城ですから標高が高いです。
眺めは最高です。
城下町が一望出来ます。
のんびりと出来る場所です。
小学校の遠足以来、数十年か振りに来てみました。
と言うか、会社の草野球で、何度か飯坂球場は利用してたけど、ホントにぶらっと出かけてみました😁230m程の標高ながら、三角点もあります。
遊歩道もしっかりしていて、途中には花桃の里もあり、桜🌸や桃🍑の季節は特に見応えがあると思います👌
正直に申しますと、山の自然を楽しみたい方や純粋に飯坂の歴史に興味のある方にオススメです。
…それ以外興味本位や迷って来た方々は気をつけてお越し下さい。
としか言い様が無いですね。
奥の細道 第14の段 「飯塚の里」芭蕉も訪れた佐藤庄司元治の居城「大鳥城」跡。
丘城でありますが、戦略的な要素は歴史とともに色あせています。
(城好きYouTuberの浪漫溢れる動画を愛聴していて、少し城の勉強をしました)元治(基治)の三男継信、四男忠信は源義経の家来となって生涯を終えることとなります。
「おっさん」になると涙腺が弱くなりますが、この段は涙無くしては読めない段です。
どうやら芭蕉の涙と種類が違うようですが…。
曾良旅日記に拠りますと、こちらには直接訪れず、丘陵を見上げただけのようです。
新聞各社がそれぞれ独自の思想や偏りがあるように、手前の投稿にも思想や偏りがあります。
特に今回の投稿は世間で言われている内容と異なるため興味の無い方はお読みにならない方がいいかと思います。
手前の義経評は「金売り吉次が連れてきた破滅の使者」です。
義経は、卑怯で/他人が自分をどのように見ているかが重要で/猜疑心が強く/地位と名誉と女が大好き/勝利に貪欲/目下の人間を見下し/意見には耳を貸さず/気に入った部下しか信頼せず/自分を立てない部下は冷遇/ 当時、都の人が云う「選り屑」に劣る気性を持ち合わせた人とはこのようなことを指しているように評します。
義経は主にすると厄介な人です。
今の言葉で言いますと「パワハラ上司」といったところでしょうか。
特に壇ノ浦の戦いで非戦闘員の水夫(かこ)や舵取りを容赦なく射らせたのは、富士川の戦いで源氏の使者を斬った伊藤(藤原)忠清(興味のある方は過去の投稿「平家越え」を参考にされたい)と並んで日本史に汚名を残した人物と言っても過言では無いでしょう。
一つの疑問は、なぜ藤原秀衡は佐藤兄弟を義経に付けたのでしょうか?ということです。
秀衡程の人物が、義経に大将の器が無いことに気づいていたと思います。
ここからは手前の勝手な妄想ですが(義経評のところから既に勝手な妄想ですが)、秀衡の子息、側室の長男「国衡」、正室の次男「泰衡」に関係していたと考察します。
清衡は国衡を溺愛していたようです。
国衡の母は信夫佐藤家(諸説あり)の出身で、これはすなわち佐藤兄弟と同族です。
ちなみに佐藤家は藤原北家秀郷流の末裔で奥羽藤原家や西行と一緒です。
(興味のある方は過去の投稿「藤原秀郷の墓」を参考にされたい)秀衡には、源氏の世になれば佐藤兄弟を義経に付けたことが、後々国衡の利益になると考えたのかもしれません。
そこで、お目付役の意味も含めて同行させたのかもしれません。
佐藤兄弟も国衡のため、佐藤家のため従事したに違いありません。
しかし、義経は上記の通りパワハラ主です。
記されている物語には佐藤兄弟は最大の忠誠を以て義経に仕えているように書かれていますが、それは物語の演出で、苦労が絶えなかったように感じます。
兵の定めとはいえ「国衡のため」と歯を食いしばって耐えている姿を想像しますと、自然に目に熱いものが溢れます。
義経の近い家臣で同行中に討たれたのは佐藤兄弟だけなのは、元々捨て駒としか見ていなかったのだと思えてなりません。
雪の吉野落ちの折、佐藤忠信が自害しようとする義経をなだめて、自らが影武者となり自害するということになっていますが、これは物語上の演出で、実際は「もはやこれまで、ご覚悟なされよ」と信忠は自害を勧めたのではないかと推測します。
追われる身となり鎮西への道を断たれた義経を奥羽に戻したならば、奥羽藤原家のがただでは済まないことを忠信は十分理解していた筈です。
「奥の細道」に話を戻しますと、芭蕉は、南にある佐藤家の菩提寺、瑠璃光山吉祥院医王寺に訪れ、義経の笈(おい:書物や旅行道具を入れて背負い運ぶ容器)と、弁慶の写経がありましたと、曾良旅日記は記しています。
ここで詠んだ句は笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)で、最初の句は弁慶が笈をもかざれ帋幟奥の細道では、什宝(じゅうほう:什物→秘蔵する宝物)と訪問日を演出上変えているようです。
先の安積山の段に端午の節句に菖蒲を葺く話が伏線として書かれていますので、時節と併せて趣の深い句となっています。
(安積山公園で解説していますので、興味のある方は参照下さい)現在は鍾馗神でなく鯉のぼりを引いています。
中島の陸軍二式重戦闘機が「鍾馗」と名乗ったことから、鍾馗神が鯉に変わったのは戦闘の必要がなくなった戦後と思われます。
句の意味は(手前訳)5月の節句に鍾馗の幟(のぼり)と一緒に義経の太刀や弁慶の笈を飾ってほしいものです。
5月の節句の由来は、元寇の際、菖蒲(しょうぶは”勝負”と同じ発音なので用いられたと聞きます)に変わって鍾馗を飾って祀ったところ、大風が起こって元の侵略軍を撃退した故事から、義経の太刀、弁慶の笈を飾っての意図するところは、「藤原泰衡が父秀衡の遺言に従って、義経を総大将にして頼朝軍と戦ったならば奥羽は守れたであろうに」といった意味と思われます。
あれ?そういえば、義経が大陸に逃れてチンギス=ハンになった伝説もありますね。
ならば現代訳も変わってきますよね。
(苦笑)文字数が多くなってしまったため補足は舘ノ山公園に投稿します。
遺跡コード 20100033遺跡名 大鳥城跡よみがな おおとりじょうあと遺跡種別 城館跡主な時代 平安/中世遺構概要 空堀/土塁/郭/水ノ手/石塁。
源義経の郎党、佐藤継信・忠信兄弟の父信夫庄司(湯庄治とも)佐藤基治(元治)の居城であった山城(標高230m/比高120m) 。
文治5年(1189)8月、佐藤基治以下主だった将が石那坂において陣を敷き、源頼朝率いる奥州征伐軍と戦って敗れ、その際に大鳥城も落城したとされる。
名前 |
大鳥城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
大鳥城(城)は、西に連なる尾根を回動して変 瞳とし土塁を築き、山腹に清水井戸を掘りされ た典型的な山城で、白鳥を埋めて守神としたこと から生じた名である。
十二世紀の初め、藤原氏が奥州を支配し平泉に都 城を構え、その一族の佐藤氏が信夫荘の荘司湯の 庄司とも称さる) となりここに居館を構えた 魏族 の西行法師が陸を旅しこの地に安らぎを求めた頃 は小平泉の観を呈し賑わいをみせていたといわれて いる。
城主元治の予継信・忠信は源義経に従って出陣、 信は屋島にて義経の身代りに戦死、忠信は吉野山 にて義経一行を救うも捕われて京都にて自刃、城主 もまた文治五年八月、義経追討の鎌倉勢を万那坂に 迎撃戦死、同月十三日落城。
今は館跡をはじめ城 矢庫空濠・一二三の取出・清水井戸等の跡に往時を偲ぶのみである。
城主一族の墓所は、対岸 野)の医王寺にあり、俳聖芭蕉の句碑がある。
笈も太刀も五月にかされ紙儀大鳥城跡説明板明地の跡あけちと読み・空地とも書く戦さの時、訓練の時、武士が本丸 ・特に戦さの時によ土産や逆茂木の資を置いという時に資材をとこへでも進んだ所である。
矢庫の跡やくらと読み、大倉とを書く武器を納めておく、又、四方を展望 てもあった。
大鳥城は矢庫とあるので、主にする為武器や兵糧の貯蔵庫 その面積は郭坪と記録されている。
土塁の跡土を盛り上げていた小さな砦、城のまわりに土塁を築き くる者を防いだ。
攻めて大鳥城には今でもその一部が残っている。
空壕の跡水のない蛹のこと攻めてくる者をここへ落とし城を守ったので あり、本丸の周囲 をめぐらしてあったが、一部埋められた。
記録によるとの高さは約十メートル・幅は約五メートルとしるされている。
西水の手山城では水が非常に貴重であり、こんな所に湧き水が出るのが 不思議である。
ところが今でも出ているのである水量を多くする為に、トックリ型であり、先人の知恵がうかがわれる。
平成十六年九月飯坂町史跡保存会。