寂光の滝が裏手にある神社です。
日光二荒山神社攝社 若子神社(じゃっこじんじゃ)御祭神 下照姫命由緒弘仁十一年(820)日光を訪れた弘法大師空海は、白糸の滝にある滝尾神社を開き、次いでこの地「寂光の滝」で修行しました。
夢の中で女神のお告げを受け、ここに祠を建てたと伝えられています。
室町時代には、寂光寺の七堂伽藍が立ち並び、釘念仏道場として繁栄しました。
不動堂には空海彫刻の不動尊象がありましたが、寂光権現堂、求聞持堂、三十番神堂、常念仏堂などと共に明治十年(1877)焼失しました。
若子神社も明治十七年(1884)に焼失しましたが、同二十年に再建されています。
明治以降「若子神社」と改められました。
文明年間(1649~1487)に寂光寺で修行中に十七日間の地獄めぐりを経験した覚源上人が、閻魔大王に頂戴した釘念仏札には、四十九の穴が開いていました。
地獄では「死ぬ苦しみではなく死後も苦しむ」のですが、この札をもって念仏を唱えれば、本人のみならず地獄で苦しむ者も救われるといわれ、寂光寺から釘念仏供養が広まりました。
釘念仏のお札は、現在も輪王寺で受けることができます。
明治二年(1869)の神仏分離政策で、寂光寺は廃寺とされ、若子権現は若子神社として残されました。
(「参道案内板」及びサイト「「栃木県の神社kyonsight」より」)社殿左後方の奥に、七段の「寂光の滝」があります。
また、若子神社より直線で約1.3km下った道路わきに、若子神社遥拝所(前立)の巨石「池石(生石)」があります。
明治4年の神仏分離令で「寂光権現」が廃止されたため、ここにあった寂光寺を改めて若子神社とした。
室町時代から江戸期にかけては、この周辺には寂光権現堂本堂をはじめとした堂宇が建ち並び、修験者や参拝者が多く訪れた。
明治時代の本に紹介された若子神社の頁には、「維新後、日光山中は荒廃したが、それもこの若子神社周辺ほどではない」という旨が紹介されている。
現在の社殿は、明治10年(1877)の火災によって消失したものを明治20年(1887)に再建したものである。
寂光寺は釘念仏発祥の地とされ、現在でも輪王寺が寂光寺に変わり御札を授けている。
山奥の神社。
裏に美しい滝がある。
鳥居の近くに良い感じに苔の生したお不動様がおられましたが写真は撮るな~っとお告げがあったので感謝だけお伝えしてきました。
名前 |
若子神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
寂光の滝が裏手にある神社です。
週末の午後でも人気は全くなかったです。