【山西風の社殿】むつ国いわき郡社宗神社。
奥羽山脈からほぼ直角に突き出る形で中通り地方に発達しているのが舌状台地である。
北は郡山市西部から天栄村にかけて南北に連続している舌状台地群の一つが亀居山であり、遠くから眺めても「ここには何かある」と思わせる山容になっている。
だからこそ、縄文時代から祭祀の場になり、その後当然桙衝神社や長楽寺が建立されることになるわけだ。
明治以前は神仏習合だから、修験の跡も、土俗的な仏教の信仰もあった。
そして神々の信仰も。
そういう信仰の場としてだけではなく、舌状台地が東西に発達していて、馬の背のようだから、中世には城館も建てられて、神社本殿裏の山はあたかも土塁が連続しているようにも見える。
もう少し古くは、石背郡衙(栄町遺跡)のあった須賀川市街地に至るまでの古代東山道の中継基地としての役割があったかもしれない。
(東山道はもう少し東側を通っていると思われるが、天栄村の龍ケ塚古墳を通過する脇道があったとすれば、桙衝神社のある亀居山を必ず通過しなければならないと私は考える。
)そういうファンタジーを抱かせるに十分な信仰の地です。
社殿に比べて、狛犬はかなりお若い感じです。
その社殿はかなり歴史があるようで、以下の様な説明が看板に書かれていました。
桙衝神社本殿 附棟礼十二枚 昭和51年5月4日指定所在地 須賀川市桙衝字亀居山93番地所有者 桙衝神社桙衝神社は、建御槌命と日本武尊を祀り、延喜式神明帳に 「磐瀬郡一座桙衝神社」と記された式内社である。
本社は、中世からは鹿島神宮と呼ばれていたが、明治3年桙衝神社と再び改称された。
現在の本殿は、慶安元年(1648)白河藩主榊原忠次の命によって建立されたもので、桁行三間、梁聞三問、切妻の流造木羽葺の三間社で、三方に縁を付している。
この建物は、妻飾・大瓶束の結綿部分・虹梁の上下面・懸魚の形などに特に時代と地方の特色を示していて、貴重である。
本殿の建立、修復の記録として慶安元年から明治年間までの十二枚の棟礼が保存されており、本殿の修理・屋根ふき替えなどの経過とともに奉行・大工·名主などの氏名が記されており、当時の営繕組織をよく知ることができ、これも貴重な資料である。
福島県教育委員会。
本殿裏にある古代祭祀跡の巨石が凄い!縄文の神々の息吹きを感じました。
ワラジが奉納され、古の始めの神「アラハバキ」の神霊を確認できました。
式内社 陸奥國磐瀬郡 桙衝神社御祭神: 日本武尊 建御雷命 社伝によると、日本武尊東征の折りこの亀居山(神居山)に柊(ひいらぎ)の八尋(やひろ)の矛をつきたて、武甕槌神(建御雷命)を祀ったのは当社の創祀という。
養老二年(718)に当山の二の平に常陸国鹿島大明神を勧請し鹿島大明神と称した。
天喜5年(1057)源頼義が、安倍氏誅伐の誓願をし鹿島大明神を桙衝神社に合祀したので、以来、桙衝鹿島大明神と称するようになった。
明治までは鹿島神宮と称されていたが、明治三年、桙衝神社と改称した。
名前 |
桙衝神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
パワースポット!空気が違う😳