19代三百数十年にわたり久慈地方を治めたと伝えられ...
地元民しか知らないと思うけど、戦国時代初期の山城の地形を利用している要塞ですね。
‼️😉100万の兵より心強い地形で、攻めにくく防御に適してますよ。
19代三百数十年にわたり久慈地方を治めたと伝えられている久慈氏の居城跡。
天正19年 (1591年)における九戸政実の乱で、久慈氏は九戸側についたことで処刑され、その翌年、豊臣秀吉の命により、久慈城はとり壊されました。
案内図はあるものの、道とは呼べない道で、登っていくには躊躇するほどの足場の悪さです。
一部、雑草が生い茂っている箇所もあるので、訪問の際は、長袖、長ズボン、歩きやすい靴をおすすめします。
久慈川沿いに開けた平野を一望する男山を利用して構築した山城なので、「みはらし通り」から大川目辺りを見下ろすことができました。
主郭部、三段構成の帯郭、豪跡、馬場跡にはそれぞれ案内板があることもあり、当時の様子を忍ぶには十分な状態です。
壊されてから400年以上も経っているとは信じ難いほどです。
標高85m男山に築かれた戦国期の平山城で久慈氏の居城。
文明年間(1469~87年)、久慈氏十二代の備前守信実の頃当地に入ったという。
九戸政実の乱において九戸政実に荷担し、久慈氏の嫡流が滅亡した。
天正20年(1592)に破却された。
気比神社辺りと慈光寺辺りに登城口があり、本丸跡・堀が残っている。
名前 |
久慈城 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
山城。
南の稲荷社側に案内板があります。
そのまま鳥居からが登り口ですが、お寺の第2駐車場🅿️側から広めの登り口があり、天守跡は杉が植林されてます。