北西の小天神社の由緒書きには道君首名が熊野宮を勧請...
野出公民館近くの登山口から登りました。
最初から急な坂道を登らないといけないので、とても疲れました。
頂上からは海が見え、島原の方が見えます。
北西の小天神社の由緒書きには道君首名が熊野宮を勧請したことから熊野岳という名称になったとされる。
ただ他の文献では全く見ないこと、由緒書きは1966年作成とかなり新しい(それの基となる文献があるかは不明)ことから信用度は低く感じる。
快晴の日は阿蘇中岳の噴煙や平成新山の山頂、天草観海アルプスなど遠景が楽しめます。
ベンチがあってゆっくり休憩できます。
眺めもいいです。
ここに来るまでの登山道もきれいです。
整備されている方、ありがとうございます。
熊本県 県道501号線沿いのLAWSON河内町店を市内から玉名方面に向かって右折(山の方に)登って行き駐車場から結構早く30分40分で山頂まで行けます最初は階段からスタートなので足が疲れますか後から 山道にもなり結構楽に登れます山頂からの景色は熊本市内や 海向こう雲仙も見え絶景ですちなみに金峯山を一ノ岳熊ノ岳をニノ岳そして、三ノ岳があります山頂は狭いですねっベンチが、あるくらいで6畳くらいでしょうか?はい でも そこから次に目指す三ノ岳も見え良い眺めです🤗
階段が結構きつかった。
眺めは最高。
陸路で大牟田・荒尾を経由して熊本県に入ると、玉名平野の遥か向こう、先が尖り肩をそびやかし、穏やかに裾野を広げて聳える連山が目に入ります。
二ノ岳(別名、熊ノ岳または久万岳)と三ノ岳です。
熊本平野の中央に林立するこれらの山塊を周辺の人々は西山三山(又は肥後三山)と呼んでいます。
主峰の金峰山(一ノ岳)は熊本市民が親しみを持って仰ぐ山ですが玉名市側からは二ノ岳と重なって見えにくく、有明海寄りの平野部になってわずかに頭をだして見える程度になります。
玉名市民にとって西山の顔は何といっても熊ノ岳です。
熊ノ岳の名は古く、今から1300年ほど昔の和銅7年(714年)疫病が猛威を振るい多くの死者が出たため時の国司道君首名(みちのきみのおびとな)が火を焚き7日7夜の祈願・祈祷を行いこれを鎮め、背後の山に熊野宮を勧請し熊ノ岳と命名したのが始まりといわれます。
この山塊の山間部、山上九ケ村といわれる地域に住む人々の中には山之上三名字と呼ばれる人々の流れをくむ人々がいます。
菊池一族とのつながりがある南北朝時代に出現した国衆の集団です。
西南戦争の折、薩軍の総大将だった西郷隆盛は薩摩に渡った菊池一族の後裔です。
山中に散在する各集落は士族からなる薩軍を受け入れ、各所に駐屯地が設営され、山塊の主だった箇所に陣地を構え官軍を迎え撃ちました。
そして、各所で激戦が繰り広げられたのです。
最大の激戦地が田原坂(たばるざか)です。
地域には戦いで傷ついた薩摩軍兵士を自宅で手厚く介抱したと伝わる家もあります。
穏やかで秀麗な表情を見せるこの山も、時は流れて明治22年(1889年)7月熊ノ岳付近を震源とする地震(鳴動)が発生し周辺地域に大きな被害を出し、さらにときは流れ昭和32年(1957年)7月には度重なる豪雨がもとで山津波が発生し、下流域の集落に甚大な被害をもたらしました。
熊ノ岳の山頂には明治22年の地震の後、大地の怒りを鎮めるため経文が埋められたといわれます。
西山三山は、阿蘇の方角あたりから眺めてもよく目立つシンボル的存在で、ナベヅルなどの渡り鳥や蝶のアサギマダラなどが渡りの際の目印にしていることもよく知られています。
阿蘇山を越えた旅客機が熊本空港へ入る際も西山三山を巻くように飛行ルートを取っています。
熊ノ岳を含む西山三山はまさに熊本中央部にそそり立つランドマークなのです。
名前 |
熊ノ岳(ニノ岳) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.7 |
なかなかきつかった💦