写実的で落ち着いた雰囲気の銅像です。
佐賀城の鯱の門の北側に建てられた第10代佐賀藩主 鍋島直正公の銅像です。
直正公は幕末期の佐賀藩の近代化に貢献した人物で、佐賀の七賢人の1人です。
写実的で落ち着いた雰囲気の銅像です。
よく見ると眉が下がっているので、にやにやと笑う表情をしているようにも見えます。
スケッチ会があれば、誰かが必ず描きそうな雰囲気の銅像でもあります。
第10代佐賀藩主に17歳で成られた鍋島 閑叟公の銅像は佐賀城鯱の門を潜る前に必ず目に入る大きな銅像です。
脚元には直正公の功績の説明プレートが幾つかあります。
幕末といわれる時期の佐賀藩は、西洋の科学技術をいち早く取り入れ、日本で初めて鉄製大砲や実用蒸気船を製造するなど、全国から注目される存在であった。
第10代佐賀藩主・鍋島直正(なべしま なおまさ)公は、今も歴史に名前を残す偉人の一人で、「佐賀の七賢人(しちけんじん)」の一人としても知られている。
以前に建てられたのは大正2年(1913年)で、生誕100年を記念して、今の徴古館北東の位置に、大隈重信公たちが中心となって建てられた。
大隈重信を建設委員長とし、佐賀常務委員には地元の政治家や実業家の名前が並び、銅像の鋳造を請け負った谷口清八の名前もあった。
東京委員には、中牟田倉之助、久米邦武、納富介次郎、岡田三郎助など全国で活躍した佐賀出身者のほか、波多野敬直(官僚)や副島道正(副島種臣子息)、佐野常羽(佐野常民子息)等爵位受領者も多く選定されていた。
この銅像は、太平洋戦争時(1944年)に、第二次世界大戦に伴う金属類回収令による供出で、武器の原料として国に渡してしまったが、それまでは佐賀のシンボルの一つとして、随分とみんなに愛されていたらしい。
そんな直正公の銅像が、生誕200年を記念して、平成29年3月に、佐賀城旧二の丸跡の佐賀城鯱の門北側の広場に73年ぶりに再建された。
建てられた銅像は、台座も入れると約8.5メートルもの大きさである。
たくさんの人からの寄付金が全国から集まって、たくさんの人の力によって建てられてたのである。
近くで見てみると、結構な大きさを感じるはずである。
佐賀城下公園に有る銅像佐賀県、県民所得低い唐津市名護屋城跡は風光明媚、関係芸能人江頭はなわ早稲田関連ちょっとヤバいイメージ有ったのですが名君として色々近代化政策を実施し大砲が明治維新を支え県民の意識も高いのか正月なのか訪れる人も多かったですが最近の話題でアニメゾンビランドサガの聖地とか。
この辺りは、僕が小学生だった頃、鯱の門から南側一帯に赤松小学校があって、まるで僕らの遊び場でした❗今の光景は、隔世の感が有り過ぎるけれど・・それでも色々思い出は湧いて来る訳で・・今の鍋島直正公の銅像が建っているのは、確かに、勿体ない位に立派だし当然、最もふさわしい場所におられる訳で、よく、英断されたと感心致します‼️もう少し、西側に向かって道なりに行けば、島義勇の銅像も立派に建っているので、本当にこの辺りは、150年~200年前にタイムスリップしながら散策出来る・・日本でも有数な不思議なところだと思うし、時間の許す方は、もっと美術館・博物館・歴史資料館などへも足を伸ばされることをお薦めします‼️以上です・・
肥前国佐賀藩10代藩主鍋島直正公(1814~1871年)の銅像は、佐賀城本丸御殿の北側の二の丸跡(鯱の門北側広場)に平成29年に再建されました。
初代の銅像は1913年(大正2年)、生誕100年記念で松原神社西側に建立されましたが、大東亜戦争時の金属供出で1944年(昭和19年)年に撤去されました。
銅像は衣冠束帯の立ち姿で、佐賀藩ゆかりの反射炉を模した台座、基壇と合わせて約8.5mの高さがあります。
鍋島直正(閑叟)は、幕末、儒者古賀穀堂を用い、藩の財政を再建するとともに、西洋文化の積極的な移入をはかり、同時に殖産興業にも努め、近代化の先駆けとなり、一躍佐賀藩を雄藩にしました。
鍋島閑叟公といった方が通りがいいでしょうね。
その業績を辿ると、名君中の名君だと思いますが、残念ながら世間の知名度は低いですね。
先見の明がありすぎたために、倒幕では薩長土の後塵を拝したためでしょうか?質朴な人柄のせいでしょうか?幕末維新期の人物中で、理想の上司といえばこの方は五指に入りますね。
名前 |
鍋島直正公銅像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
ひな祭り飾りの陳列してありました。
地元小学生が製作した物!