観光客が、余り居ない時に、見れました。
22年10月12日に訪れました。
『楽々園』は、延宝5年(1677年)に彦根藩4代井伊直興(なおおき)によって造営され、江戸時代には「槻御殿(けやきごてん)」などと呼ばれていました。
下屋敷であると同時に隠居所としても使用されていました。
玄関棟、御書院棟、地震の間、楽々の間などの建物が並んでいます。
建物の中は、玄関棟の入り口付近しか入ることは出来ませんでした。
御書院棟前に広がる楽々園庭園は、枯山水庭園で、迫力がありました。
楽々園は工事中外観を遠目で見たのみ、早く華麗に修復されてきたらご対面ですね。
槻御殿名前がいいですね。
でも、遠くに見えても趣きは威厳と風格が有りました。
2021.05.09彦根藩4代藩主の井伊 直興により延宝5年(1677)から2年を要して造営された彦根藩の下屋敷。
11代藩主・井伊直中の隠居に際して大規模な増改築が行われ、全盛期を迎えるも、その後は縮小傾向になる建物は「御書院」「地震の間」「楽々の間」等の建物で構成され「御書院」の奥は渓谷の風情をなし「地震の間」「雷の間」「楽々の間」へと連なっている。
「地震の間」は耐震構造の建物であるため、そう呼ばれていますが、本来は茶の湯に用いられた「茶座敷」だった。
「楽々の間」も「地震の間」と同じように数寄屋建築で、12代藩主・直亮により増築される「楽々園」と呼ばれるようになるのは明治時代以降のことで、江戸時代には、「黒門外御屋敷」と呼ばれていた。
1881年~1994年にかけて民間業者が旅館を営業していたが1947年に「玄宮園」「楽々園」を井伊家より市が取得旅館の廃業により建物等が市に返還。
現在は建物の老朽化があるため、内部公開はしていない。
現在、平成17年~令和6年の予定で保存修理が行われており○第1期 平成17年度~平成22年度玄関や御書院の解体修理、浴室・便所の解体撤去と発掘調査など○第2期 平成23年度~29年度地震の間、雷の間、楽々の間等の歴史的建造物および松の間、新座敷の間などの明治時代以降に建てられた建造物の屋根の葺き替え等の部分修理○第3期 平成30年度~令和6年度(予定)長屋門や塀重門の復元、活用のための展示や事務室等の復元整備および前庭の整備と、一般公開が待ち遠しい内容となっています。
ここは、彦根城天守の北側に位置する楽々園は、楽々の間」にちなんで楽々園と呼ばれ、玄宮園とともに4代当主である井伊直興(なおおき)により建立されて彦根藩の下屋敷で、下屋敷とは一般 的に隠居した藩主が住む屋敷で、槻御殿(けやきごてん)と呼ばれている。
庭は枯山水の布石で彩られ、「庭」の美識は無い拙者でも感心してしまう。
松原内湖が埋め立てられなければ、今とは比べようのないほどの絶景が見られたそうです。
この屋敷から望む伊吹山や佐和山は内湖と相まって非常に美しかったと語り継がれ、山を楽しみ水を楽しむ」「民の楽しみを楽しむ」という心からと言われています。
無料で8時頃から見学出来ました。
職員の方から、玄関付近から彦根城が見えると教えて貰いました。
(天守閣の部分だけです。
)綺麗に手入れされた庭園でした。
目の前のお堀いた白鳥も人に馴れているのか近くで見る事が出来ました😃
キレイな庭園です。
時間があればゆっくり庭園を眺めたいなって感じです。
でも何か物足りなさも感じました。
何が足りないのか分かりませんが、、、
名前 |
楽々園 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0749-23-0001 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
ひこにゃんに会いに。
皆さんひこにゃんに釘付けでしたが、ふと庭園に目を向けると本当に美しい庭園が見れました。