私は香山公園の観光ボランティアをしているがこの勅撰...
▼ 地域住民、いえ山口県民がとても大切にしてきたことがわかります。
銅碑の周辺を見ると、周りを囲んでいた柵がありません。
なぜか?ふむふむ。
戦時中に「金属供出」で軍部に提供されたものと思われます。
なのに、本体の「銅碑」は無事に残っています。
当事、家庭の鍋釜をはじめ、お寺の釣鐘までも供出されていた時代です。
亀山公園の頂に並んでいた萩藩主父子+4支藩主の6基の銅像までも供出(昭和19年2月22日)されているというのに、この碑だけは、手をつけてはならない「聖域」として愛されていたことを伝えています(皇室由来のものを溶かして潰すわけにはいかないという忖度も感じられますね)。
もっとも、明治25(1892)年5月19日に宮内省内匠寮からもらったときに、毛利家において「永久保存」するという約束もしてるんだけどね(宮内庁『明治天皇紀9』1973年、p.435)。
▼ 書いてある文字には「13代長州藩主 毛利敬親の偉勲をたたえたもの」という端的な説明が付されますが、実は、この文章が確定するまでに13年間もかかりました。
というのも、碑文の原案をつくった宮内省一等編脩官(へんしゅうかん)川田剛を、長州藩出身者があまり信用していなかったから。
川田は東大教授をつとめ、数々の国家事業にたずさわってきた高名な漢学者だったのですが、「長州藩のこと、毛利家の歴史にはシロウト」と考えた山口県の人々が、文章にあれこれ注文を出したのです。
中心となったのは村田清風の孫、村田峰次郎で、たとえば「毛利家の祖先が皇室に由来することを明記せよ」「毛利敬親の手柄をもっと具体的に特筆せよ」などといったもので、ずいぶん紛糾したようです(上符達紀「毛利敬親勅撰銅碑と毛利家ー勅撰碑文の撰文をめぐってー」山口県地方史学会『山口県地方史研究119』2018年、pp.61-65を参考に記す)。
▼ 碑の文字は、野村素介(もとすけ、右中:うちゅう)によるもの。
野村は幕末の1866(慶応2)年10月からの「長州藩と幕府の仲直り交渉」を成立させた腕利きの人物ですが、書家としても知られます。
▼ 野村素介の字が、どれくらいウマかったかって?それは、ここの銅碑を見ればわかります……そう!「ワープロみたいな字を筆で書く」ことができたのです。
私は香山公園の観光ボランティアをしているがこの勅撰銅碑の書体には感動しています。
一人でも多くの人に見ていただいて説明したいと思います。
名前 |
勅撰銅碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.4 |
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明治天皇が毛利敬親の偉業を称えた石碑です。
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