毎月第1日曜日の早朝に朝市があります。
生まれて52年、一度しか訪ねたことがない土地たが、思いのある場所。
私は東京生まれ、育ちだが、父が東中島町育ちで、私の本籍も未だに東中島町。
長男が生まれて間もなく、戸籍を取りに一度だけ本地を訪ねた。
自分の起源を辿ってみたのだが、岡山駅でタクシーに乗り込んで本地を目指した際、とても怪訝な顔をされたのが忘れられない。
幼児連れたしな。
鬼門に入った父の話では、遊郭を営んでいたそうで、播州辰の屋号で、鳶の頭として京橋の普請に尽力したそうな。
何代か前の爺様は、岡山藩の家老の娘を嫁に取ったようで、その際下賜された短剣らやが残ってる。
私が子供だった昭和30年代には、京橋の下の船着き場では、漁船が接岸して魚の積み降ろしをする様子や、瀬戸内海航路の客船が接岸して人や自転車が乗り降りする様子を見ることができました。
現在では、京橋朝市が催される時と花火大会の時には多くの人出で賑わいますが、それ以外の時は訪れる人もわずかで、まことに静かな場所になりました。
昭和30年代の方が生活に密着して活気が有ったなあ、くらいに思っていたのです。
ところがある時、郷土の歴史書で明治初期の京橋周辺の写真を見てびっくりしてしまいました。
何百隻ともわからぬ程の船がびっしりと接岸していて、その賑わいたるや今の様子からは想像もできないくらいだったのです。
また、京橋が江戸時代の街道のルート(山陽道)に含まれていたことも知りました。
橋の下の西岸は石垣を積んだ船着き場になっていて、瀬戸内海から児島湾を通って旭川を遡って来た船がここまで接岸することができました。
また、ここより上流には、綱で引いて川を遡上する「高瀬舟」と呼ばれる小舟が、県北の久世・勝山あたりまで人や物資を運ぶ事ができました(ここより上流の出石町鶴見橋の上に発着場跡あり)。
そうした南北水運と東西陸路の中継点(岡山市街の発祥地)として、このあたりには岸壁が見えなくなるくらいたくさんの船がびっしり接岸し、上流からは材木を組んで流した筏などが行き交って、今の静けさからは想像もできないくらい賑わっていたそうです。
子供が迷子になったり、旅の同行者とはぐれてしまって相手が見つからなくなる事も多かったとみえて、「迷子しらべ」の場所が設けられていた程です(京橋西詰より水の手公園側に信号渡ると現存あり)。
京橋朝市、懐かしいです😊今もずっと続いています。
グレイトです👏いい岡山の文化です😃✌️あの頃の岡山!良かったですねぇ😃✌️でも今は、時代と共に変わらないといけない文化を感じています😊運転マナー全国最下位😢市内の道路では停止線が消えているヶ所がいっぱい😨雨の日は特に気をつけないと😟喫煙マナーも昭和と変わらないし😢😢😢何とかしなければ✊悲しい気持ちになります💧平和で心穏やかに!優しい気持ちが育まれる街に😊子どもの笑顔を消さないで🍀
名前 |
京橋 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
とても爽やかで綺麗…。
ゴミのポイ捨てしないでね!! 毎朝がんばって拾ってるわよ☆